あだ名

多くの人が少なくとも1〜2個のあだ名を持っているように思う。わたしもまぁまぁの数のあだ名を持っている。

まずブログやサイトで名乗っている「さとみこんこん」これもあだ名みたいなものである。しかしこの「さとみこんこん」実際に呼ぶ際には、ほとんどの人が呼びにくいと感じる様で「さとみさん」「こんこんさん」など省略して呼ばれることがほとんどで「さとみこんこん」とフルニックネームで呼んでくれるのは私の義理の兄くらいしかいない。

ちなみに1番ベーシックなあだ名はさと、さっと。その他さとちゃん、さとみん、さとちん、さとやんなど「さと」を基準に装飾されて呼ばれることが多いのだが、小学生の頃「さと」と全く関係のないあだ名で呼ばれていたことがある。



伊達公子



伊達公子」である。これは小6のころのあだ名で、一部の男子がそう呼んでいた。解説するとわたしは伊達公子に似ていない。テニスもしたことがない。テニスも伊達公子も好きだった訳でもない。日焼けしているわけでもない。クルムもパン屋も関係ない。なのに伊達公子なのである。

何故か。

実は小6の時に他にも呼ばれていたあだ名がある。



テニスコート



わたしは「伊達公子」の前は「テニスコート」と呼ばれていた。先ほども述べた様にテニスをしていたわけではない。テニスコートが家にあったわけでもない。テニスコートが好きだったわけでもない。ないのである。  

何故か。


実は「伊達公子」「テニスコート」の前に呼ばれていたあだ名があった。


ペチャパイである。


伊達公子」「テニスコート」と呼んでいた男子はそもそもわたしのことを「ペチャパイ」と呼んでいた。ひどいもんである。

背はまぁまぁ高いがのんびり発育していた私は確かにブラジャーなんかいらないような胸だった。小学校の時には生理もこなかったし、脇毛なんて20歳まで生えてこなかった。

つまり仰せの通りペチャパイだったのである。「おい!ペチャパイ」と呼ばれても事実であるため反論もできず「ムムム...」と辛抱する毎日であった。

それがある日、ペチャパイから「おい!テニスコート」と呼び名が変わったのだ。話を聞いてみると「胸が平すぎてテニスができそうだから」とのこと。乳首にネットを張るとか訳のわからないことも言っていた。小6の男子はロクなことを考えないねまったく。と思いつつも「テニスコートw」と胸の上でテニスが地味に自分の中でウケて割と気に入っていたあだ名それが「テニスコート」であった。

そんな、なかなか良いあだ名テニスコートもだんだん大衆に飽きられてしまう。そして次についたあだ名が「伊達公子」であった。

テニスと言えば伊達公子っしょ!という小6男子の安直な考えから生まれたあだ名、それが伊達公子であった。つまり伊達公子はペチャパイ→テニスコートの過程を経て伊達公子にたどり着いたわけである。イナダ→ワラサ→ブリ   日吉丸→ 木下藤吉郎豊臣秀吉    ゼニガメカメールカメックス と同様ペチャパイ→テニスコート伊達公子も小6男子の経験値や発想の転換から呼び名が変化していったのだ。ペチャパイ女から伊達公子と呼ばれる様になったことは確かにゼニガメからカメックスくらいレベルアップしている。ペチャパイの進化系伊達公子。小6男子なかなかいいセンスじゃないの!

でも一つだけずっと不満に思っていることがある。


どうせなら伊達公子じゃなくてシャラポワが良かった。






小銭を拾ってあげたかった

ある日わたしは勤め先の歯医者で受付をしていた。待合室には70代のご婦人が2名会計待ちをしている。

先に診察が終わった婦人Aの名前を呼び受付にて会計、次回の予約を取っていた。待合室にはソファーが置いてあるのだが、受付からソファーまではだいたい4メートルくらい離れている。その時婦人Bはソファーに腰をかけていたのであった。

するとである。

ガチャーーーン

物音に驚きながら何事かと顔をあげるとソファーに腰をかけていたはずの婦人Bが床を這ってアワアワしていた。

フローリングの床一面に小銭が散らばっていた。

慌てる婦人B。きっと会計の時にスムーズに進むよう段取っていたのだろう。そして段取りに失敗した結果、財布から小銭をぶち撒き床を這う行動に繋がったようだ。

しかも何故か年寄りは小銭を大量に持っている傾向にある。このご婦人も然り。大量の小銭は四方八方に散らばった。

あぁ...ごめんなさい。と申し訳なさそうに小銭を拾う婦人B。

大変だ。すぐにでも小銭を拾ってあげたい。だけどわたしは婦人Aの受付中。

4、5枚の小銭は車輪のようにコロコロと転がり婦人Aの足元あたりで力つきて止まった。

囲いの中にいるわたしは拾ってあげられないけれど、婦人Aが拾ってくれるだろう。そう思っていたが婦人Aは全くもって無視。さっきからずっと無視。ガチャーンと小銭が散らばった時に振り向いたような気もしたが無視。別に耳が不自由なわけでもなし。

なんでこの人小銭を拾ってあげないんだろう。

婦人Bはまだ床を這っている。

婦人A、足元の銭くらい拾ってあげてくれと眼力で訴えた。

全くもって無視を貫く婦人A。

わたしはモヤモヤした。

仕方ない。わたしがさっさと受付を済ませて拾ってあげよう。

アップテンポで次回の予約をとり「お大事に」で締めくくる。

婦人Bは四つん這いからようやく立ち上がり、ソファーに再び腰をかけていたが、まだ婦人Aの足元には婦人Bの小銭が数枚散らばっている。

拾ってあげなきゃ。

受付の囲いから出て待合室へ向かう。

さぁ、小銭を拾ってあげよう!

せっせと駆けつけ待合室の扉を開けた瞬間

「コーーートーーー(怒)」

ドスのきいた声で叫ぶ婦人A。

泣く泣く開けた扉をそのまま締めて婦人Aのお預かりのコートを取りに行く。

そんな元気があるなら小銭拾ってあげてくれよ婦人A。

婦人Aに失礼しましたとコートを返しさっさと帰れと玄関のドアを開けて見送る。

やれやれとドアを閉め、ようやく落ちていた小銭を拾って婦人Bに渡すことができた。

「小銭まだ落ちてましたよ。すぐに駆けつけられなくてすみません。」

「ありがとう。こちらこそごめんなさいね。お恥ずかしい」

これで一件落着である。

落ちてしまった小銭を拾ってあげて渡す。ただそれだけのことを何故婦人Aはしなかったのだろうか。


婦人Aが小銭を拾わなかったことがショックすぎて小銭を拾わなかった婦人Aのことを昼休みの時に先輩に話した。

すると、

「落ちたお金を拾っちゃいけないって思ってる人もいるからね」

「!!?!」

拾うのが当たり前だと思っていた落ちた小銭。拾わない人はそれなりに理由があるということを先輩から学んだ。風水的によくないとかそういうことなんだろうか。その時は「そうなんですか!」と言って終わった。

後日調べてみるとタイでは落ちた小銭は不浄となされ拾わない人が多いとか、ささやかなことで運を使ってしまいもったいないので拾わないとか、そういった仏教の教えがあるらしい。

またインターネットで調べると、Yahoo!知恵袋で人が落とした小銭を拾うかどうか質問していて、盗ると思われるから拾わないというアンサーがあった。拾って貰う人がそんなこと思うかと驚き、拾う側にもよっしゃ小銭ゲットと盗っ人する人がいるのかよと二度驚き、わたしは人生がわからなくなった。


それでもわたしは盗っ人のレッテルを貼られるリスクを背負ってでも小銭が落ちていたら拾ってあげたいし、落とし主がわからない小銭も拾い、1円でも拾っている。なぜならもったいないから。

こうやってささやかな運を使っているせいで、大きな運気がわたしには流れてこないのかもしれない。

しかしそんなある日、わたしは道端で4000円を拾ったのだ。裸でポロっと落ちていた4000円。そのまま貰うのもなんだか気が引けたので交番に届けた。すると財布に入っていないお金というのは持ち主が現れにくく、結局そのお金は数ヶ月後の12月に拾い主のわたしに戻ってきた。わたしはそのお金でクリスマスに食べるチキンとケーキを買おう!とガッツポーズをした。

仏様的には馬鹿者とお叱りになるのかもしれないけど、イエス様はきっと拾ったお金で生誕を祝っても許してくれますよね、アーメン。と、拾った4000円でありがたくチキンとケーキを買ってクリスマスを祝ったのだった。

これからもわたしは自信を持って小銭を拾っていきたいと思います!





追放されそうになった話

女子校に通ったことはないが、歯科衛生士になるための専門学校は女子校みたいなものであり「女子校っぽいな」と思う瞬間に何度も遭遇したように感じる。
私が通っていた歯科衛生士学校は1クラスのみの2年制で生徒数は約60名の全員女性のクラスであった。
そしてこの女性60人は大きくわけてだいたい7グループほどに分かれて群れを作っていたのだが、わたしは入学してからずっと1番派手なグループに所属していた。
人間はまず見た目や服装が同じような者同士で群れる傾向にあると思う。わたしが属していた群れの象徴は「ギャル」で、主にB系とお姉ギャルの集まりから成り立っていた。髪はミディアムからロングヘアーを茶色に染め、服装は胸か足を出すことが鉄則であった。具体的にいうと、足を出す場合はデニムのショートパンツを着用、胸の場合は深めのVネックで谷間を見せる。なかには両方チョイスという羽振りの良いメンバーもおり、なかなかギラギラしたグループだったように思う。
「私たち、家族のようにいつも一緒にいるよね!」ということからわたしが属していた集団名は「ファミリー」と呼ばれた。ギャルは基本的になんでも略したがるので、「ファミ」と省略されることもしばしばだった。
ファミはクラスの中でも幅を利かせていて、昼休憩になると基本60名がギュウギュウに詰め込まれた教室でおとなしく弁当を広げて食べなければならないのだが、ファミは「狭い」というみんな知っている理由から、となりの臨時で使う教室(60名がギュウギュウに詰め込まれた教室と同じ広さ)を占領し、となりのメンバーとの間隔を3メートルくらいあけたところに着席。優雅に弁当を食べていたのだ。それを2年間ずっと続けたけれど、ファミに何か言ってくる者はいなかった。このとなりの空いた教室はファミのもの。所有する領土の広さからわかるように、ファミはスクールカースト的にも頂点だったと言えるのではないか、そんな風に思う。
ファミの構成員は結成時は13名だった。しかし最終的には8名にメンバーが減るのだが、じゃあ後の5人はどうなったかというと、1名ずつ追放され脱退に追い込まれ消えていった。
「あれ?Aは?」
ある日いつもの領土で弁当を食べようと教室に入ると、いつもいるAの姿がない。
Aは?というわたしの問いのあと、領土は数秒間の静寂に包まれたのだった。
そして、ようやっと口を開いたものから告げられた言葉は
「わたしはさぁ、前から嫌だと思ってたよ?」
だった。彼女は強めの口調でわたしに言い放った。その言葉のあとには頷くものもいたし、知らない顔でご飯を食べるもいた。わたしは気づいたのだ。Aは追放されたんだと。 
ファミの中では3テンポくらい遅れて行動をしていたわたしは、話題についていくことができず、いつも追放されたメンバーのことに気づかず(告げられず)事実を知った時にはメンバーが消えていた。
ファミリーという熱いネーミングをつけるわりに気に入らないメンバーは容赦なく切り捨てる。そういう集まりだった。
3テンポくらい遅いわたしだったがそのことで追放されることもなく、最終メンバーまで残ることができ、今でもファミとの交流は続いている。
しかしそんなわたしにもファミに追放されかけたことがあった。
事のきっかけは歯科衛生士学校の一大イベント「臨床実習」である。
大学付属であった我が校は、校舎のとなりが歯科大学病院となっている。
2年生になると病院実習が始まり、我々衛校生はとなりの病院で診察の見学をしたり、診療のアシスタントをして勉学に励むのだが、勉学よりも気合が入っていたのはドクターとの出会いであった。
普段女子ばかりの我が校。年頃の娘たちである。キャッキャッしたいのだ。
臨床実習は適当に先生に決められた6人程のグループで、各科に行って実習に取り組む。一つの科ではだいたい1週間〜3週間くらい実習に取り組み、次の科へと移っていく流れだ。
各科に到着すると、診察をしている歯科医師の元にそろそろ〜と近寄り「よろしくお願いします」と元気よくあいさつをして、アシスタントに入る。
1ドクター1アシスタントが基本で、1人のドクターに2人つくことはない。つまりここがアタックチャンスなのである。
ドクターに気に入ってもらえると、連絡先の交換やごはんのお誘いがあったりと、その後の学校生活に彩りを添えることができる。もちろんファミリーメンバーも気合充分である。
昼休憩になると各科に実習に行っていた生徒が一斉に教室に戻り、ご飯を食べてまた実習に戻るのだがその昼休憩では何先生についたかの報告会である。
「ペリオ(歯周病科)の山田先生ちょーかっこいいんだけど!笑顔が本当に癒される!しかもちょー優しいの!」
こんな具合で話をするのだが、これには裏のメッセージが隠されていてる。正しくは
「ペリオ(歯周病科)の山田先生ちょーかっこいいんだけど!笑顔が本当に癒される!しかもちょー優しいの!」(だからあんた達手出すんじゃねーぞ)
大事なのは後半のカッコの部分である。暗黙の了解的に人のお気に入りには手は出さない。ということがなんとなく決まっていた。
つまりお気に入りの先生を見つけてさっさと報告会で名前を出さなければ、学校生活に彩りを添えることができないのである。
わたしだって当時19歳の年頃の娘。歯科医師とキャッキャッしたかった。
しかし全てにおいて3テンポくらい遅れているわたしはなかなかお気に入りのドクターを見つけることが出来ず、報告会で名前を発表することができなかった。その間に
「補綴科の安井先生!かっこいいー!」(とるんじゃねーぞ)
「保存科の鈴木先生!やばーい!」(とるんじゃねーぞ)
続々と発表される名前。焦る私。しかし、結局私が報告会で名前を発表することはなかった。
ある日。保存科に配属されたわたしはアシスタントが終わり実習終了まで時間もないし片付けを手伝って時間になったら教室に戻ろう、そう考えて行動していた。
すると
「ねぇ!時間まででいいからこっち手伝ってくれる?」
歯科医師からぶっきらぼうな感じで呼び止められた。
「あ、わかりました。」
感じ悪いなと思いながら速やかにアシスタントについた。
「そこ吸って(唾をバキュームで)そ。オッケー」
アシスタント中はそこそこ優しい。しかもこの先生、関西弁である。
(関西弁、やっぱいいよな、関西弁)
心の中で一句詠み上げ結局治療が終了するまでアシスタントを務めた。
「ありがとう。助かった。」
マスクを外してお礼をいってくれた先生は日に焼けた柴犬みたいな顔をしていた。もともと細い目が笑うとさらに細くなり愛嬌が増す。
治療が終了するとアシスタントについた先生からノートにハンコを押してもらう決まりがある。
ハンコの名前は鈴木であった。
(保存科の鈴木...あ、たしかRのお気に入りだわ)
なるほどねー。これがRのお気に入り鈴木先生、はいはい。と思いながら病院を出て教室に戻った。
それから鈴木先生には保存科にいる間2〜3回アシスタントについた。
最初ぶっきらぼうで怖い先生かと思いきや「焼肉たべたい...」などと仕事中に呟くそんなノリの先生であった。
そして事件は起きる。
その日は文化祭だった。文化祭は隣接する歯学部の学生と共同で行なっていた。
衛校生は毎年交代制でブラッシング指導を出し物としてやることになっている。ファミの中でもとりわけ仲のよかったMちゃんが最終の当番だったため、私はMちゃんが当番を終えた頃に迎えに行った。ちょうどMちゃんは片付けをしており、わたしも手伝っていた。すると
「なにやってんの?」
登場したのは鈴木先生であった。
「あ、先生。片付けをしていました。」
「そう。ねーねーガム食べるー?」
鈴木先生はノソノソと歩いて私たち2人にガムを差し出してきた。
我々は鈴木先生からガムをもらい、少し立ち話をした。
「おまえさー湘南の方に住んでるんやろー?えーなー。」
Mちゃんに話しかける鈴木先生。どうやら先生の趣味はサーフィーンで、そのせいで日焼けした芝犬になっているようだ。
Mちゃんは湘南生まれ湘南育ちのBガールである。2人が湘南の話で盛り上がっている横で私ニコニコ話を聞いていた。
鈴木先生と別れ、いつものファミの領土に戻った。これから後夜祭があるからみんなと合流して、体育館がクラブと化する後夜祭会場へ行こう。
ガラガラと扉を開け、2人でニコニコしながら領土に入った。
我々が領土と入ると、いつも賑やかな領土とは違い、静寂に包まれていた。
周りを見渡すと怖い顔でじっとしているメンバーの姿。
え....?
わたしとMちゃんは訳もわからず、その場に立ち竦んでいた。これは...?
訳もわからないので黙って突っ立っていたら、とうとう痺れをきらせたメンバーの1人がこう言い放った。
「仲いいなら言えばいいじゃん?」
ん?である。意味がわからなかったので、何が?とかえすと
鈴木先生だよ、仲良く喋ってんの、さっき見てたから」
ただ湘南の話をしていただけである。それもNGだったとは知らず、顔を見合わせるMちゃんとわたし。
「もう、いいよ。もういいから」
鈴木先生推しだったRが言った。
「いこ」
あきらかにふてくされた顔でRは言い、領土から出て言った。その後に続くメンバー。おそらくクラブ会場に移動したのであろう(体育館)
わたしとMちゃんの2人は、領土に残された。
「え?喋るのもだめなの?」
「え?」
2人はひたすら え?の連呼をした。
終わった。これは紛れもない追放だ。明日からの弁当は52名がギュウギュウに詰め込まれた教室で食べよう。
しかし幸いわたしにはMちゃんがいた。明日から頑張ろうね。Mちゃんと励まし合い我々はしばらく領土に突っ立っていたのだった。

翌日、弁当の時間は大人しく教室で食べようとしていると、
「え?あっち行かないの?」
メンバーの1人でファミの中でも権力のある子がわたしとMちゃんに声をかけた。
....じゃあ。
ということでソロソロと権力のあるメンバーの後に続いて領土に入るわたしとMちゃん。
たぶん1秒くらい領土は静まりかえった気もしたが、この権力のあるメンバーが何事もなかったように受け入れてくれたお陰で周りも徐々に話をしてくれるようになり、Mちゃんとわたしはもとの生活に戻れることができた。ギリギリセーフである。

と、こんな具合に追放されかけなんとか持ち堪えた訳なのだが、Mちゃんとわたしはヤラレっぱなしではなかったということを最後に伝えたい。
メンバーがあの日クラブと化する後夜祭に出かけたあと、Mちゃんとわたしはしばらく突っ立っていた後、猛烈な怒りに襲われた。あいつらなんだ?喋っただけでクソが。後夜祭なんていってられっか。こっちは飲み行くぞ!
とここで電話をかけたのがソエジという先生であった。ソエジと我々は普段からちょこちょこ飲みに行く仲で、ソエジは鈴木先生と同期で一緒に留年もしたということを実習に出てから知ったのだった。
我々はソエジを呼び出し、今日起こった鈴木先生絡みの出来事を全部チクった。そして悪口をつまみに酒を飲んだのだ。我ながら華麗なるしたたかさである。良くやった!と思う。

女だらけの専門時代は不平不満悪口で埋めつくされ息苦しさを感じたこともあったが、今となっては懐かしい。華やかな時代であった。
現在のファミは大半が家庭を築き、本当のファミリーと幸せそうに暮らすメンバーがほとんどで、今はあの頃のギラギラした感じはまるでない。みんな落ち着いたのだ。
それぞれのファミリーで脱退または解散という話がないことを、わたしは祈っている。

誕生日の日に

先日31歳の誕生日を迎えた。わたしは割とイベント事に気合を入れて気持ちを高ぶらせたい人間なので「自分の誕生日」これは盛り上がらずにはいられないのである。
起床は5時だ。誕生日をちょっとでも長く生きるために5時から活動をした。まずブログを書いた。フィリピンの結婚式のエピソードを書いた。下ネタの記事を誕生日の日に書いた。満足である。
自分の所属するサイトの記事も書き進める。31歳になってもせっせと記事を書く。時々いつまでわたしは書いてるんだろうという気にもなる。何か起きるのかな?って思ったり何も起きないかもなって思ったり。好きで書いてるんだぞ!って思ったり。
けれども30歳で始めたブログの活動はいろんなことが起きたように思う。2つのサイトに所属することができたし、やったぞ!という感じもする。
「今年の抱負は素人の研究社で4、ハイエナズクラブで3つの記事を書こう」という具体的な目標をたててみた。わたしの座右の銘は「自選は頑張る」である。やりたいと言って入れてもらったんだから頑張ろう、そう思う。あと自分のフロスブログも再開して、iDeCoも始めて老後に備えていくことも決めた。

誕生日を充実させるために行きつけの美容室に行って担当のあやかさんにパーマをかけてもらった。あやかさんは技術も上手なのだがコミニュケーションの取り方も私好みなので気に入っている。
なかなか茶色いわたしの髪にパーマがかかる。仕上がりはトイプードルみたいだった。
「今回もよくかかりましたね!フワフワ〜!どうですか?」
「トイプードルみたいですね」 
基本的に思ったことを言ってしまう性分で自分のことをトイプードルと言ってしまった。身長162センチ足のサイズ26センチの31歳の壮年期が自分のことをトイプードル。若い子に自分のことをトイプードル。少々後悔した。
「....トイプードル....」
あやかさんは低い声で呟いていた。けれどもその後
「もうトイプードルにしか見えません」
わたしの髪をセットしながらボソッとあやかさんが言った。やっぱりあやかさんはいいなぁとあやかさんの良さを再確認し、またあやかさんのことを指名することを誓って店から出た。

その後、結婚式の引き出物のカタログギフトの中に良い店で良い肉を食べられる券があったので、それを利用して良い肉を食べに行った。丸ビルの36階あたりで食べる肉である。きっと美味しいに決まっている。
店につくと1番窓際の席に案内された。窓掃除の苦労を想像してしまうような立派な大きな窓。そこに広がる東京の景色。晴れていたら絶景であろうそこからの眺めは、生憎の雨天でせっかくの展望は薄暗くよく見えなかった。時々何をしに来るのか36階まで鳥が遥々飛んできて止まった。そんな鳥の姿をみて「鳥だ!鳥だ!」と鳥を見て興奮をする壮年期。鳥がやってきただけで喜ぶわたしはまぁまぁいい奴だと思う。
コース料理だったので、肉料理が順々に運ばれてきた。彩が美しい前菜からはじまり、ローストビーフのサラダ、和牛の寿司などが運ばれた。和牛の寿司は口に入れた瞬間から美味かった。テレビでよく噛む前にうまい!という人がいて、何をおっしゃると思って見ていたが、まさにそれになった。口に入れた瞬間美味い。あれはきっと本心だ。
この時点で結構お腹がいっぱいで、たとえここで帰っても大満足という気分だったが、メインはこれからだった。和牛のステーキが運ばれてきたのだ。
皿にドンと乗ったステーキ。これがまたジューシーで柔らかく、噛めば噛むほど肉汁がでてお腹に溜まっていく。
一切れ食べ微笑み、二切れ食べ米はまだかと煽り、三切れ食べたあとやっぱ漬物が1番美味しいね!と米のお供にでてきた漬物に感激し、そうして和牛から目を背けていった。
歳だ....
ステーキは間違いなく美味しかったし、滅多に我が家では食べない高級和牛だから最後まで食べたかった。しかし口に運ぼうとすると体が拒否反応を示す。このまま口に入れたら全てを台無しにするぞ。わたしの消化器からやめろと叫ぶ声が聞こえる。
まさか自分が人並みに和牛を食べられなくなる日が来るとは思わなかった。これが老というやつですか。肉食!と自分で言うほど肉が好きなはずなのに。悲しいやら悔しいやら。そういえば寿司もトロとかウニとかこってりしたものが好きだったけど、今一番好きなネタはヤリイカゲソだしこういうところから歳を取るのだな。とやるせない気持ちがわたしを襲った。
そしてわたしは思ったのだ。体は限界だけど心は和牛を欲している。持ち帰ることはできないだろうか。
半分は残っている和牛。どうせ捨てられるのだから持って帰りたい。
手始めに「このステーキ、サンドイッチに挟んだら美味しいだろうに」と爽やかな声色でブツブツいってみた。反応はなかった。「残ったお肉は持ち帰ることはできないだろうか。あ、でもそういうのって衛生状の問題でできないんだってね、店の人が勧めてくれたら持って帰ることができるみたいだけど」
丸の内36階で直球を投げまくる。誰も気づかない。
最終手段に移る。
半分残っていると店の人も下げるに下げれなかったようで、そろそろと近寄り「お腹いっぱいですか?」の声がわたしにかかる。
わたしは待ってました!の勢いで、
「そうなんですぅ!すっごい美味しくて、もっと食べたいんですけど、お腹いっぱいで、食べれなくて....本当に残念で残念で食べたいんですけど」
めっちゃ食べたいアピールをした。言ってくれ、店員さん!あの言葉を!
「あら残念ですね〜」
そういうと店員さんは御膳をさっと持ち上げてその場を後にした。店員さんに連れられわたしの和牛も去っていった。お太鼓結びの店員さんの背中をわたしは目で追った。ドナドナドーナ...切なさが襲う。

このようにして今年の誕生日は過ぎ去った。今年の誕生日もなかなか思い出深いものとなったと思う。
31歳の誕生日の日に学んだことがある、それは「欲はある時に全力で使う」である。
また新しい座右の銘ができた。
やりたいと思ったことは全力でやらないとやりたくてもやれない日が来るだろう。そんなの知ってると思っていたけど、誕生日の和牛から身をもって痛感したことだ。持ち帰ることができなかった丸ビルの和牛。悔しい気持ちでお別れした和牛。しかしわたしは違う形で和牛を持ち帰ることかできた。そういうことにしておく。







フィリピンでの国際玉送り

あれはどうだったのだろうかと1年くらい疑問に思っていたことがあった。

わたしは、新郎も新婦も知り合いではないのにフィリピンまで行って結婚式に参列したことがある。
詳しく言うと、新郎はわたしの彼の高校の友人。新婦はフィリピン在住のフィリピン人。2人は新婦の母国フィリピンはセブ島で挙式を挙げることとなり、そのためわたしの彼が招待を受けたのだ。当初彼は「フィリピンだし参列しようかどうか迷っている」と後ろ向きな姿勢だったのだが、楽しそうだね行こう行こうと呼ばてもいなければ接点もないわたしが参加の意を表し、どさくさに紛れて出席させてもらったという訳である。

そのフィリピンでの結婚式では、挙式のあと夜には海辺で披露宴兼パーティーが行われたのだが、そのパーティーでのゲームが実にくだらなくて良かった。そしてそのゲームこそが1年近くあれはどうなんだろうと胸につっかえていた根源なのである。

ちなみに結婚式の様子を簡単に説明すると、奥様はフィリピン人ということで、新婦側の参列者は全員フィリピン人であった。新郎側は全員日本人。なのでフィリピン人と日本人がちょうど半々くらいの割合で出席していた。
フィリピンチームである新婦側は奥さまの親族の他友人の割合が多いため、参列者はほぼ若い女性。何故か皆ピンクのドレスを身に纏っていた。反対に日本チームは男性の参列者が多く、日本の結婚式のように皆スーツ姿であった。
パーティーでは新郎と新婦のファーストダンスというものがあり、終始いちゃいちゃしながら海辺でダンスする様子を皆で鑑賞した。
いちゃいちゃしたダンスが終わったかと思うと、海辺にセッティングされた大きなスクリーンにドローンで撮影されたセブ島がバーンと映り、その後スクリーン上に新郎と新婦が登場。再び新郎新婦がいちゃいちゃする様子を今度は新郎新婦も交えて鑑賞した。またフィリピン人の新婦がなかなかのべっぴんときたもんで、新郎としてはここぞとばかりに仲間に見せつけたかったのだろう、一切の笑いや恥じらいもなく、美人妻の腰に手を回しデレっと見つめる姿が印象的であった。緩みきった顔は溶け出すんじゃないかと思うほどである。でも本来結婚式ってこういうもんじゃないかなと思い、異国の結婚式は大変感銘を受けた。新郎新婦がご飯も食べる暇もなく出席者をもてなし気遣う日本の結婚式に疑問を感じていたからだ。おじさんの長い祝辞もいらないと思う。結婚式は当事者がイチャイチャする姿を周りはお酒でも飲んで温かい目で見守り、時々誰か歌でも歌って盛り上げればいいのではないだろうか。そんな気がした。
さて本題のゲームの話である。プレイヤーはあらかじめ決められていて、司会者に名前を呼ばれた人は席をたって皆の前でゲームに挑んだ。勝者には賞品もあった。残念ながらほぼよそ者であるわたしの名前が呼ばれることはなく、ゲームに参加することはできなかった。
第1ゲームは日本からは若者男性が5名、フィリピンからも若い女性5名が呼び出され、男女がペアになり日比ペアによるチーム戦が行われた。
ゲームの内容は、各チームにピンポン玉が1つ手渡され、日本人男性が頭の上で両手を組んで仁王立をし、フィリピン女性がペアの男性の右側のズボンの裾から先ほどのピンポン玉を入れ、股を経由して、反対側のズボンの裾からピンポン玉をだす。1番速かったチームが勝ち!という大変わかりやすいゲームであった。そしてわたしはまずここで疑問が浮かんだのだ。
(玉が股を経由するときに、触れないのだろうか。)
スーツって股上にゆとりが無いように思うのだが、大丈夫なのだろうか。20代前半であろう可愛いフィリピーナたちにそんなゲームをさせて嫌がらないだろうか。男性はみんなが見守る中通常モードを保てるのだろうか...
そんなわたしの心配をよそに司会者の合図で国際玉送りはスタート!フィリピーナ達は一斉にズボンの裾から玉を入れて手際よく玉を送った。誰一人恥じいや躊躇する様子はなし。ピンクの可愛いいドレスのことなどお構いなしに、みんな両膝を地面につけてテキパキと玉を送る。5人のフィリピーナからは気合が感じられた。そんな姿を見てわたしも「がんばれ!」と力強くエールを送る。
わたしの予想通り股上のゆとりの影響からか、折り返し地点でどのチームも玉の動きが悪くなり、苦戦している様子だった。玉の通りが悪い上に障害物もあるし、フェイクも2個くらいあるし、これは難関だ。日比のプレイヤーは皆ここが踏ん張りどころであろう。
「がんばれ!」の声援により力が入る。
勢いよく玉を通過させようとする者、ちまちまゆっくり玉を通過させる者。皆手を替え品を替え関門突破に励んでいる。
ところでわたし以外の観客はどのような表情でこの試合を眺めているのだろうか?怪訝な表情の者はいないだろうか。
目線を変えてあたりを見回すと、手を叩き腹を抱えて笑うフィリピン人の姿が目に移った。大ウケである。
(めっちゃウケてる...これはもしかしたらフィリピンの結婚式の定番のゲームなのかもしれない)
アツいぞ!フィリピンの結婚式!などと感心していると、難関を突破した後シュルシュルと上から下に玉を滑らせ見事左のズボンの裾から玉を取り出しゴールを迎えたチームが!勝者の2人はハイタッチをし、喜びを分かち合っているようだった。
しかし勝者が決まっても試合は続行し、なかなか関門を突破できない最下位のチームは否応無しに参加者全員から視線を向けられ2人のプレーは見守られた。
この視線での玉送り、あの人は大丈夫だろうか。
最後まで健闘した2人が見事ゴールを迎えた時には拍手喝采であった。
そして最後まで異国の地、フィリピンで活躍した日本人男性に「大丈夫でしたか!」と声をかけたい気もしたが、何しろわたしはほぼ部外者。心の中で彼に大丈夫でしたかを問いかけ拍手で健闘を讃えた。
このあとも日比対抗でゲームは続いた。次のゲームはフィリピンの女の子に目隠しをさせ、ペアの日本人男性が誘導して自分のヘソをあてさせるゲームであった。その後は日比で楽しむ国際伝言ゲーム。最終的にフィリピンの女の子に下品な日本語を言わせるという仕組みになっていて、たしかマイクで「鼻くそを食べたら美味しかった。」とかそんなようなことを言わせて、それをフィリピン語で通訳して女の子に「もぅ!やっだー!」といって皆で笑うという実にくだらないゲームの数々だった。しかし本当にみんな良い笑顔で、互いの言葉がわからなくても楽しい時間を共有できた素晴らしい結婚式だったように思う。フィリピンの結婚式はほぼよそ者も大満足な素敵な結婚式であった。 


そして、それから1年経ってもやっぱり気になるのは
「あの結婚式でのゲームはフィリピンでの定番なのだろうか」
「国際玉送りで女の子は障害物や違う玉を触らなかったのだろうか」 
「あのゲームで男性は反応しちゃったりしないのだろうか」
ということである。
あれはどうだったのだろう。
1人でふとした時に思い出しては忘れ、誰かに言うほどのことでもないと思って誰にも言わずにいたあの出来事。 
しかしある日の朝彼とフィリピンの結婚式の話になり、わたしは長年の疑問を彼にぶつけてみることにした。
まず彼は男性なので、反応しちゃたりしないかのかという長年の心配をぶつけてみたところ
「あのね、ゲームしていたのはみんな大人でしょ。中学生じゃないんだから大丈夫」
であった。 
小学生みたいなこと言わないでよと若干呆れた様子であった。
次に触れたかどうかについては当事者ではないのでよくわからないということで、ピンポン玉はないので小さなぬいぐるみで代用し、ゲームの再現を手伝ってもらうことにした。
ズボンがステテコでゆとりがあったこと、ぬいぐるみを使ったことなど完璧には再現できなかったが、それでもやってみた感想から「触った」ということで決着をつけることができた。
そして最後の疑問。あれはフィリピン式だったのか?である。こればっかりは2人で考えてもわからない。すると
「電話して聞いてみよう」
と現在奥さんと四国で暮らしているあの時の結婚式の新郎に、早朝に電話をかけてみることとなった。
「そこまでしなくても」とちょっと戸惑ってしまったのだが
「そんなことで1年も悩んでたんだから全部解決しなよ」
と彼は後押ししてくれた。
まず彼が電話をかけて簡単に近況報告をし、彼女が聞きたいことがあるらしい。ということで私に電話が回ってきた。
「おはようございます。朝早くからすみません。あのフィリピンの結婚式のことなんですけど、あれはフィリピン式の結婚式だったんですか?」
「そうですね、ファーストダンスはフィリピン式だよね。」
「あの時のゲーム、あれはフィリピン式なんですか?とても盛り上がっていたので日本でもやればいいのにと思いました。」
「あ、ゲームね。ゲームの内容はね。ゲームは、
俺が考えたゲームです」
「そうでしたか!いやとても楽しいゲームでした!はい、はい、はい、はい、じゃ今度四国に行った時に会いましょう!奥さんにもよろしく」

ピッ


新郎の趣味だった。


お立ち台から人生を感じた


わたしには地味な顔をしている割に毎週のようにクラブで遊んでいたパーティーピーポーな一面がある。
20代前半は主にヒップホップ系のイベントにでかけることが多く、渋谷のATOMやHARLEM VUENOS asiaなど円山町界隈を攻めていたかと思うと、箸休めに六本木なんぞへ繰り出していた。
六本木では今はなき「FLOWER」というクラブに行くことが多かった。
みなさんはFLOWERをご存知だろうか。
2012年9月2日に起きた「六本木クラブ襲撃事件」の現場、それがFLOWERであった。
事件が起きた頃は、箸休めに六本木なんぞへ繰り出すこともなくWOMBやWebなど大人の社交場でいそいそと活動していたので、その頃のFLOWERのことはよく知らない。しかし事件後閉鎖してしまったFLOWERにはいくつかの思い出があった。

そもそも、わたしが熱心にクラブに行っていた理由として「クラブで踊る」ということが挙げられる。踊ることが何よりも楽しい踊り子だったのである。とにかくクラブで遊んで踊りたかったので、当時は思いたったらクラブに自由に行ける環境を作りたかった。
そのためにはダンスが上手けりゃ1人でもクラブで楽しい時間を過ごせるのでは?と考え1年くらいハウスダンスを習ったのだった。しかし団子屋のバイトで団子の値段も覚えられなかったわたしが、もちろんダンスの振り付けを覚えられる訳もなく「君、覚えが悪いからノートとったら(怒)?」と講師から冷ややかにアドバイスを受けるような事もありました。ところが幸いガッツが世の中の平均以上にあるもんですから、ディスられながらも這いつくばって通い、下手なりにがんばった結果、すごい独創的な踊り方をするようになりました。
「混雑しているフロアでもさとみこんこんがどこで踊っているのかがわかる。」
と口々に言われるまでに成長。わたしの踊りはまずまずの評判であります。

そんな踊るの大好きな踊り子は箸休めの六本木FLOWERに行った際に衝撃を受けたのであった。
「おっ、お立ち台がある!」
円山町界隈のクラブにはステージはあってもお立ち台はなかったのであった。さらにFLOWERのお立ち台は女性なら誰でも乗ってOKという男女差別的なシステムを採用していた。
もちろんわたしは踊るの大好き踊るこんこんですからお立ち台を見た瞬間に登りたい欲にかられ、朝の女性車両のようにぎゅうぎゅうになったお立ち台の上でピーヒャラと楽しいひと時を過ごしたのであった。
なので「六本木クラブ襲撃事件」を知った時は、あぁ、もうお立ち台で踊ることもないのだなぁ。とちょっぴり悲しい気持ちになったのである。

それからFLOWERのお立ち台のことはすっかり忘れていたのだが、先日、ある写真を見てお立ち台のことを思い出したのであった。

わたしが研究員として携わっているサイト『素人の研究社』の「皆様のなんかいい写真を紹介します」という企画で、投稿いただいた写真に僭越ながらコメントをさせていただいたのだが、その中の投稿者かとみさんから寄せられた写真を見て「あっ!」となったのだ。
草っ原に白い三段ほどの段々がポツンと置かれている写真なのだが(表現が難しいのでサイトを是非ご覧ください。)
この写真に投稿者のかとみさんは「2D時代のドラクエの良さを思い出します」
とコメントをつけて送ってくださった。
わたしはこの写真を見て真っ先に「お立ち台!」が浮かび、ドラクエの良さよりも段に登って踊っていた懐かしさを感じたのであった。かとみさんの写真に「この上に乗って踊りたい」とコメントしたかったのだが、なんだこいつと思われたら嫌だなと人目を気にした結果「台に乗って両手をあげたい」と控えめなコメントを綴ったのだった。
この出来事から、過去の体験や経験が今の自分なのだなと改めて思った次第である。ドラクエをやっていないわたしはかとみさんの写真を見ても「ドラクエ!」とはならず、きっとかとみさんもあの写真を見て「お立ち台!」と思う人間がいるとは思っていなかったんじゃないかと思う。

「皆様のなんかいい写真を紹介します。」わたしはこのコーナーを通して人生を感じたのであった。いいコーナーですよね!




近所のホルモン屋

家の近所に新陳代謝の活発な店舗がある。その店舗に最近ホルモン屋が入った。以前は昼は蕎麦屋で夜は沖縄料理を出す店だった。その前はなんだったか忘れたけど飲食店だったと思う。とにかく入れ替わりが速く、とりあえず入れ替わったら食べに行くようにしている。
前の蕎麦屋はびっくりするくらい不味かった。だけどお店を切り盛りするお母さんの人柄と笑顔で店はなんとかもっているのか?という感じだった。しかし、人柄と笑顔だけではやっぱり店は上手くいかなかったようで蕎麦屋兼沖縄料理屋は数ヶ月で閉店。気がついたらホルモン屋になっていた。

この店舗、店の広さは3坪くらいで10人も入れば満席という狭い店である。
新しいホルモン屋の店構えは元蕎麦屋らしく扉はガラガラ横に開ける作りになっていて、入り口にはホルモンと書かれた赤い提灯がぶら下がっている。
扉にかけられた「商い中」の札には1080円のシールが貼りついたまま。
ホルモン屋のメニューは黄色い紙に直筆で書かれていて、さらにそれをカメラで撮影しプリントしたものを外の扉に赤いガムテープで貼り付けられている。プリントしたメニューの上には「いらっしゃいませ。間に合わせのメニューで御免」の文字。オープンしてすぐだからかな?と思っていたけどオープンから3ヶ月はたった現在も間に合わせのメニュー表は健在で、赤いガムテープでしっかり固定されている。
色々手が行き届いていない感じは店構えからも読み取れる。今回はいつまで続くだろうか。

例のごとく試しに店に入ってみることにした。
ガラガラ横に扉を開けると古い作りの店に不釣り合いな、大変立派な換気扇が各テーブルの網の上にしっかり構えられているこに驚く。
「いらっしゃい」
立派な換気扇に見惚れていると、厨房からおじさんが声をかけてくれた。
「空いてる席へどうぞ」
適当にカウンターに座ってとりあえずビールを注文した。

店の中には男性2名の陽気な客と、カウンターに1人黙々と食べる男性客が座っていた。
けして混雑しているわけではないが、客席からよく見える厨房で、おじさんはてんやわんやしていた。
どうやらおじさん1人で店を回しているようだった。
「ビールね!ちょっと待ってね!ごめんね」
おじさんはちょっと困り顔の笑顔で返事をした。
「ゆっくりで大丈夫です」
ゆっくり待っている間にメニューを読む。牛シマチョウ 牛丸小腸 牛レバー 牛ハラミ 牛ミノ...牛がメインのホルモン屋のようだ。中には牛フワという珍しい部位もあった。
「ごめんね。ビールお待たせしました。」
おじさんが厨房から出てビールを運んでくれた。
そのついでに丸小腸と名前が可愛い牛フワを注文した。
「ちょっと待ってね!」
困り顔の笑顔で返事をするおじさんは、ワタワタと再び厨房に戻っていく。
「おじさん!こないだの柔らかいのなんだけっけ?」
後ろの陽気な客がおじさんに声をかける。
「丸小腸じゃないですか?」
「丸小腸じゃないよー。ほらなんだっけー?あの美味かったやつ。」
後ろの陽気な客はもう顔馴染みなのだろうか。ワタワタしているおじさんに御構い無しで大声で話しかけている。

となりの男性客は一心不乱に肉を焼いてはモリモリ食べている。なかなかいいテンポだ。堅いの良い格闘家っぽい男性。この近所にはボクシングジムがあるから、もしかするとその帰りなのかもしれない。

「お待たせ!丸小腸と牛フワね!」
ワタワタしながらおじさんが肉を運んできた。
「タレはこれね」
小皿には味噌ダレっぽい赤茶のトロッとしたタレが入っていた。

まず丸小腸から焼いてみる。
ホルモンの焼き具合っていうのはわかりにくい。焼けた?焼けてるよね?食べてみるか。
こんな具合に、ホルモンを食べる時は少しばかりの勇気と冒険心が必ずついてくる。

しかし、この店の丸小腸には冒険心は不要だった。
「焼けてくるとコロコロ落ちてくるから注意してね」
焼けてくると山型になった鉄板から丸腸がコロコロ転がりだすらしい。焼くサイドではなく、丸小腸自ら冒険へと出発する。
なんてわかりやすいんだ。

まず真ん中にねっとりした丸小腸をのせてみる。
10分程度でねちゃっとしていた丸腸が縮みながらパンパンに膨れ上がって風船みたいになる。
それを箸で摘もうとすると鉄板を勢いよくコロコロ転がった。食べごろのサインだ。
パンパンになった丸小腸を食べる。
すごく美味しい!後味が潔い。濃厚だけど、しつこくない。潔いホルモンだ!
この手作り風の味噌タレも美味しい。ごはんがほしくなる。でもメニューにライスがない。
「おじさん、あの、ごはんないんですか?」
「ごめんなさい!人手不足でごはんまで手が回らないんです!」
ごはんってそんなに手のかかるものなのだろうか。
でもおじさんがそういうんだから、そうなんだろう。
丸小腸を美味しく食べたあとは牛フワを焼いてみた。
牛フワはシワシワで和紙みたいな肉だった。茶色くなるまで焼いてみた。たしかに食感はフワフワしている。味は淡白。美味しい!という感じではないがさっぱりしているので丸小腸のあとにはちょうど良い。
その後牛ミノや牛レバーも追加で注文した。

注文をした頃、陽気な2名客と1人で黙々と食べていた客が同時くらいに店を出ていった。
ワタワタしたおじさんの動きも落ち着いた頃、おじさんに声をかけてみた。

「おじさんは前からホルモン屋なんですか?」
「いや、違うんです。」
「ホルモン屋に憧れてたんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんです。しょうがなくやってるのかな。しょうがなくってこともないんだけど...」
カウンターの前に構えられた厨房からおじさんは作業しながら話を続けた。
「もともと、僕。内臓屋なんです。ずっと牛とか豚を解体して、中の内臓を取り出して綺麗にする仕事をしてました。
で、僕。国民年金なんですよね。年金だけじゃ暮らしていけないじゃないですか。前の仕事もずっとできないし、どうしようかなぁって思った時に、これならできるかなと。」
おじさんはまた困り顔の笑顔でこちらを見て笑った。
「内臓屋。だからか!おじさん、ホルモンすごい美味しいです」
「ありがとうございます。美味しいホルモンをどこで手に入れられるか、どうやったら美味しく食べることができるかっていう点に関してはよく知ってると思うんですよね。だけどね、商売に関しては素人なもんでね...ほんとは人も雇いたいんだけど、人件費かかるでしょ。だから今は雇えなくて..」
「この換気扇もすごい立派ですよね。お金かかってそう」
「そうなんですよ!でもお客さんが臭くなるのは嫌だろなと思って」
店構えやワタワタするおじさんの様子から手が行き届かないのはよくわかったのだが、大きな換気扇、綺麗なアミ、すっきりしたカウンターから、おじさんが情熱を注いでいる点が何かということが、店の中に入ったことでわかったような気がする。
外の間に合わせのメニューなんてずっとあのままでいい。頑張っておじさん。

おじさんは話出したら止まらなくなってしまったようで、昔の内臓屋時代の話を色々聞かせてくれた。
「いけね!つい、話すぎました。すいませんね」
ホルモン屋のおじさんは話好きということもわかった。

また来よう。そろそろ会計をして帰ることにした。帰る前にトイレに行った。建物も古いので、トイレも古いんだろうな汚かったらやだなと思いながら入った。

しかし、トイレはめちゃめちゃ綺麗だった。綺麗な上に花まで飾っていた。
用を足して手を洗うと、蛇口から自動で水が出た。
さらに驚くべきことがあった。
蛇口が煌々と光るのだ。
「わ。光った!」
思わず呟いた。
(この光....いるか?)
蛇口を光らせるなら米を置いてほしい。

トイレから出て早速おじさんに
「おじさん!トイレすっごい綺麗だね!」
トイレの感想を伝えた。
「そうでしょ。トイレもリフォームしたんだよ」
おじさんは自慢げにわたしに言った。おじさんがニコニコ嬉しそうなので、光る蛇口は余計だと思うとは言えなかった。

たくさん食べてお酒を飲んでも1人1500円程度という大変良心的な金額を支払って店を出た。
また一つお気に入りの店が増えてよかった。
ただ、やはり心配なのは新陳代謝のいい店舗に店を構えた点。あのホルモン屋はいつまで続くかということである。


数週間後。
またホルモン屋を訪れると、店はほぼ満席でおじさんがパニックに陥っていた。
すると客である矢口真里似のおばさんが突然
「わたしやるから!」
といって厨房に入ってドリンクを作り出したのだった。
「すみませんね。」
おじさんはいつもの困り顔の笑顔で言った。
おじさんよりも堂々と厨房に立つ矢口真里似のおばさんも、他の客も、みんな笑顔だった。
なんか、この店は簡単につぶれないような気がする。
みんなにつられてわたしも笑った。