はじめての子育て

「子供ができたら終わり」

イヴァンナにそう言われたと友人が笑いながら言った。イヴァンナさんは友人のセルビア人の友達だ。私はイヴァンナさんを直接知らないが、友人の友人であるイヴァンナさんのことを少しばかり知っている。イヴァンナさんが金髪であること、イヴァンナさんがキャリアウーマンなこと、イヴァンナさんには小学生の娘さんがいること、友人とはたまたまスタバで知り合ったこと...など。

そんなイヴァンナさんが「子供ができたら終わり」と友人に言ったらしい。身も蓋もないこと言うんだなぁと果物がたくさん乗ったパンケーキを食べながら私はその話を聞いていた。独身二人の我々はちょうどブームであったパンケーキでも食べてみようかとわざわざ朝から代官山までやってきて朝食にパンケーキを食べていたのだ。私ら優雅だねと言いながらキラキラ映えるパンケーキをナイフとフォークで崩していった。イヴァンナさんと友人は英語で会話をしている。「子供ができたら終わり」この言葉も英語だからこのようなストレートな訳になったのかもしれないし、言葉通りのことをイヴァンナさんが感じたのかもしれない。どちらにしても、そんなこと言うんもんじゃないよというのがこの話の感想だった。

 

 

「ちょっと待ってねぇ」

朝コーヒーを飲むことは毎日の日課だ。もう何年もそうしている。朝コーヒーを飲むことは朝顔を洗うことと一緒だ。飲まないと気持ちが悪い。カフェイン依存症というわけではない。カフェインレスのコーヒーを飲むようになってから、しばらく経っている。朝コーヒーを飲むという習慣が私には大事なことなのだ。市販のペーパードリップコーヒーにお湯を少しずつ、溢れないように注ぐ。実家のリビングからギャーギャー鳴き声がする。生後1ヶ月も満たない我が子である。私はコーヒーを入れてパンを食べたいのだ。コーヒーを入れてパンを食べながら朝ドラを見たいのだ。早くしないと朝ドラに間に合わない。すずちゃんに間に合わない。

「ちょっと待ってねぇ」

この言葉を3回程使い、どうにか広瀬すず主役の朝ドラに朝食準備を間に合わせようとした。が、鳴き声は「ちょっと待ってねぇ」を使う度にどんどん大きくなっていく。4回目はさすがに使えず、コーヒーにお湯を注ぐことを中断し我が子のもとへ駆け寄り抱き上げた。そうこうしているうちに広瀬すずが画面上に現れる。我が子を抱きかかえたまますずちゃんをみる。横に揺れたり縦に揺れたりしながらすずちゃんをみる。隙を見てパンをかじる。我が子が寝る様子はない。すずちゃんが終わってからも寝る様子はなく、子を抱き抱えながらだらだらとパンをかじる。ようやっと抱き抱えられた我が子が眠りにつく。起さないようにゆっくり寝床に寝かす。やれやれとキッチンに向かうと中途半端な状態のコーヒーが冷えきってカップの中に溜まっている。仕方なく再度湯を湧かし、冷えたコーヒーの入ったカップに湯を注いでいく。出来上がったヌルいコーヒーを立ったまま飲んで美味しくないと呟いた。

風呂に入っていても「ギャー」と言えば中断、大便をしていても「ギャー」と言えば中断、うんこくらいゆっくりさせてよと言っても子には通じない。

 植木鉢やゴミネットなどで賑わっていた私のiPhoneの写真フォルダーがあっという間に我が子で埋め尽くされていく。朝起きてから夜眠りにつくまで考えることは我が子。お酒を飲みに出かけることが楽しみだったはずなのに現在の楽しみは15分間の朝ドラのすずちゃん。おっぱいさん。これは私の今の呼び名である。家族からも自分でもおっぱいさんと呼んでいる。あれ私ってこんなんだったけ?

授乳オムツ授乳オムツ授乳抱っこオムツオムツ抱っこ授乳授乳授乳24時間エンドレス夜も眠れない。 

産後の私はすぐにカッとなってキレたりすぐに泣いたり突然震えることもあった。

 

「子供ができたら終わり」

金髪のイヴァンナさんが言っている。イヴァンナさん、たしかにそうかもしれない。私にはもしかしたら早かったのかもしれない。まだ子供を持つことよりも朝にパンケーキを食べに出かけていた方がよかったのだろうか。

子が誕生して2週間後。私は慣れないベビーカーを病院内で暴走させていた。ベビーカーを押しながらエスカレーターに乗ろうとし付き添いの母にひどく怒られていた。今日は2週間検診のため小児科を訪れた。我が子の健康チェックの他母親である私の状態の確認もあった。小児科に到着してまず問診を記入した。子の様子を記入し、自分の問診に答えていった。問診には笑うことができたかとか、物事を楽しみにして待ったかとか、はっきりとした理由もないのに不安になったかとか、そんなことが書いてあった。楽しみなことなんて特別ないし、あまり笑っていないし、何もかも不安だしよく泣いてる。一つ一つ正直に回答し、受付に提出した。

椅子に座って待機していると

「ママ、大丈夫ですか〜」

と腑抜けた声で呼びかけられた。

顔を上げるとそこには若い看護師がバインダーを持って立っており、眉毛を八の字にして私を見ている。大丈夫ってなにが?と思いながらも、大丈夫です。と答えた。

「子育てで不安なこととかあるんですか〜」

どうやら先程の問診のことを聞いているらしい。まぁ、普通に子育てって不安ですよね。

と俯きながら返答した。

「そうかそうか〜」

と相変わらず脱力した声で喋るその看護師はそう言って、再び診察室へと戻っていった。

それから時期にわが子の名前が呼ばれ診察室に通された。子供の発育のチェックの後、女医から「お母さん、何か心配なこととかあるんですか」と尋ねられた。あぁさっきの問診のことかと思い、先程の看護師にも言ったようなことを再度女医にも伝えた。すると「専門のカウンセラーもいますから本日相談します?」と聞かれた。子供を待たせるのも可愛そうだから結構ですと答えると「じゃあ保健師とも連携をとることになっているんで連絡しますね」と告げられた。

そうして思った。この女医は直接言わないけど、私はあの問診の結果だとたぶん鬱なんだろうと。

子供ができ、私は産後鬱になったのか。子供は可愛い。なのに私は参ってしまったのだろうか。子供が可哀想。そんなことを思い夜な夜なまた泣くのであった。

 

それから1ヶ月後。里帰りが終了して家族3人の生活がスタートした。我が子は生誕してから1ヶ月半経った。相変わらず心配なことばかりではあるが、大切な我が子と楽しい生活が送れるよう奮闘することで、心配に思う気持ちは以前よりも薄れてきたように思う。自宅に戻ってからも、すずちゃんを見ながら縦に揺れたり横に揺れたりしている。ぐずる時は子供と同じ名前のアーティストのPVを見せて抱きながら踊る。それでもダメなときはサンダーキャットのライブ映像を見ながら歌って踊る。だいたいそれで寝る。それが最近のルーティンである。

朝コーヒーを飲むのは時間がないのでもうやめた。そのかわり子が昼寝をした隙にコーヒーを淹れることにした。夫に内緒で買う98円のティラミスをお供に、コーヒーを飲みながらブログを書いたり、ちまちま映画を見たり本を読んだりする時間は心地良い。あんなにこだわっていた習慣はいとも簡単に崩れ、また新しい形となって日常へと浸透している。

朝にパンケーキを食べにでかけたり、ゆっくり湯船に浸かったり、ちょっと遊びに行ってくると言って新幹線で名古屋にでかけたり、酔っ払って知らない酔っ払いに水を買ってあげるようなことはしばらく休業である。

子供ができたら終わり。確かに色々終わった。

だけど子供ができたことは新たな日常のはじまりでもあることに気がついたのであった。

 

 

はじめての出産

子が生まれた。

なかなかお腹から出てこなかった我が子。

あんまりにも出てくる様子がなかったため、入院をして私の誕生日にお股にバルーンを入れて出てくるように促す予定であったのだが、願いが通じたのか入院の前日の夜に陣痛が始まりお誕生日バルーンは回避されたのであった。

陣痛っていうのはどんな痛みなのかとドキドキしていたのだが、本陣痛は想像の350倍くらいの激痛であった。鼻からスイカなんて例えはわかりにくいし的確ではないように思う。後日姉から「北斗晶が出産の痛みをダンプカーで何回も腹の上を轢かれる感じと言ってたよ」と聞いたが、こちらの例えの方が近いように思う。

出産前、ぺこ&りゅうちぇるのぺこちゃんの出産のブログに記していた「出産の時はお腹の子供も頑張っているから痛いって言わないと決めていた」という内容に感銘し「わたしも痛いと言わないぞ!」と心に決めていたのだが、なんてったってダンプカーで何回も轢かれる訳である。分娩中痛いを連呼しまくっていた。たぶん北斗晶も痛いと言っていたと思う。もしかしたらぺこ&りゅうちぇるのぺこちゃんは北斗晶よりも強靭なのかもしれない。

子はなんとか出てこようとしたものの、なかなかいきむ段階まで降りてくることができず、さらに陣痛を誘発する処置が施された。この陣痛促進剤のおかげで痛みが倍増。ダンプカーにさらにブルドーザーが応戦し私の腹の上を交互に轢いたのだった。5時間以上ダンプとブルドーザーに轢かれ、助産師に「これいつまで続きます?私もう無理なんですけど」と弱音を吐くと「あなたも辛いだろうけど子供も辛いんだよ」と厳しめな口調でぺこちゃんと同じようなことを言われ泣く泣く耐えたが、ダンプとブルドーザーに何度も轢かれてるんだから痛いとも無理とも言わない方がおかしいだろう。弱音くらい吐かせてくれよ、そう思った。

耐えに耐え疲れ果てていた母だったが、実は腹の子も我慢の限界だったようで心音が弱くなってしまった。母はどうやらその影響で高血圧症になってしまい分娩室の中にyabaiの空気が漂いはじめたのを感じた。立会い出産に挑んでいた夫は分娩室から出されてしまった。急に周りがソワソワし始め、医師や助産師らが「いけるか?いけるんじゃないか?いけそうだなぁ」とブツブツ呟いていたかと思うと「じゃあいきんでみましょう!」と急にいきみに流れがシフト。一度退出させられた夫も再び登場し、そーれそーれと分娩室中一致団結。なかなかいきみのセンスがあった私、急にハイピッチで動き出した我が子、とにかく早く出したい医療人の連携でいきんでから割とすぐに子が誕生した。

生まれた瞬間はなんとも言えない感動を味わうことができると数多くの経験者から聞いていたが「終わった」これが私の感想であった。ダンプとブルドーザーの襲撃からやっと解放された。終わったと感じながら助産師に抱かれて忙しくしている我が子をぼーっと目で追っていた。

子の心音は弱くなるわ母は高血圧症になるわで母子ともに危険な状態となったため、今回の出産では急遽吸引分娩という方法が施された。わたしが高血圧症になった訳は仮死状態になった我が子を救おうと血圧をガンガンあげて救おうとしたことが原因のようだった。痛い痛いと弱音を吐いて助産師に叱咤されるようなヘタレ根性の私だけど、私の体はしっかり子を守ろうとする母の役目を果たしていたことに妙に感動した。

それから分娩室で軽食が出されたが、食べる元気もなくウィダーインゼリーを細々と吸引していると、間も無くしてお股に強い痛みを感じるようになった。看護師にその旨を訴えると産後の痛みだろうということでロキソニンが処方されたが、なかなか強い痛みに痛い痛いと騒いでいた。

薬が効いて痛みが少し落ち着いたころ、股の確認をされた。するとまた分娩室がザワザワし始めた。どうやら私の出血量が異常な様子である。一度去っていった医師が再び現れ内診をすると「手術が必要です」とのことであった。難産のあとに緊急手術が執り行われることとなったのだ。

わたしは泣いた。マジかよと思って泣いた。しかし、なんだかよくわからないがこのままだと股の出血多量で死ぬ。もう手術を受けるしかなかった。今日から私は立派な母なのだ。子のためにも死ぬわけにはいかない。

貧血症状でカタカタ震えながらたくさんの書面にサインをしていった。どこの股から血が出てるのか確認するため、わたしは日付が変わろうとする時間から全身麻酔をして手術に挑んだのであった。

 

目がさめると担架に乗せられて運ばれているところだった。意識がまだ朦朧としているのが自分でもわかった。手は痺れて感覚がない。「大丈夫?」声がする方に目を向けてみると心配そうな夫の顔が見えた。手術は終わった。無事っぽいぞということがわかった。

担架に乗せられたわたしは病室に運ばれた。担架からベットに移され、わたしの尿管と腕には管が繋がっていた。時計を見ると日付を跨いでいる。今日はわたしの誕生日である。24歳の誕生日、わたしは沢山の管をつけて病室で迎えた。その時二度と病室で誕生日は迎えないと決意したはずだったのに、32歳の誕生日もまた管をつけて病室で迎えてしまった。

しかし今回は夫がそばにいて、別室には数時間前に誕生日を迎えた我が子も一緒である。心強い誕生日であった。

「撮って」

手術後の病室で夫に記念撮影を依頼した。そうして向けられた携帯に管をぶら下げた腕を上げ、私はダブルピースをしたのだった。

 

お誕生日のバルーン

子が産まれない。

友人知人から早産の話はよく聞いていたが、過期産だったという話は聞いたことがなかった。自分が過期産になる可能性なんて考えていなかった。

今までは「社会に出たくないのね。ゆっくりしてね」「私に似てのんびり屋なのね」「お腹からの出方がわからないのかな?」などと呑気に思っていたが、もうそんなことは言っていられない。子よ、頑張ってそろそろ出てくるんだ。

先日検診に行った時に「来週になっても出ないようなら入院して医療処置をとりましょう」という説明を受けた。その後先生は処置を3つ提示しながら内容を説明した。

提示された内容は

1、誘発分娩 2、出てくるまで待つ 3、帝王切開

さぁどれ?こんな感じで三択を迫られる。もちろんその処置のリスクなどは説明を受ける訳なのだが、どれって言われても全部嫌だよというのが私のアンサー。しかし私の答えは選択肢にはないのだ。

「先生にお任せします...」

結局30秒程度の中で私が出した答えは、お馴染みのこのワードであった。じゃあ1にしましょうと先生に回答を委ね、書面にサインをした。

お医者さんにとっては大した処置ではないのだろうが、もうちょっと前に説明を受けて誰かに相談したり考える時間が欲しかった。

家に帰ってから看護師の妹に相談をした。先生にお任せした内容でいいと思うよということであったから少し安心はしたけれども、どの処置に対してもこんな具合で急に選択を迫られるのだろうか。病院で処置を受ける人たちはどのように治療を選択してるのか、この選択で本当に良いのだろうかと心細く思っている人は多いのではと感じた。

サインをした後に入院の日はここにしましょうかとカレンダーを指さされた。入院の日は私の誕生日だった。嫌だよって思ったけど「わかりました...」と同意した。先生ってのはすごい。決してこの主治医は威圧的な態度ではないのに、萎縮してはい、はい、と従順になってしまう。

24歳の誕生日の時、私は腕と尿道に管を繋げて病室にいた。傷と尿管ステントの痛み、全身麻酔の副作用と発熱と酸素マスクの息苦しさにもがき苦しんでいた。誕生日、欲しいものは健康と目に涙を浮かベ願ったあの日。もう2度と病室で誕生日は過ごさないと思っていたのだが、まさかまた誕生日を病室で過ごすことになろうとは思っていなかった。

誕生日の日の夜に私はバルーンというものを子宮口に入れるらしい。誕生日のバルーンと言ったら通常 ★★happy birth day★★ こういうのを部屋に飾るなりして楽しむわけだけど、私の誕生日にはお股にバルーンが贈られるらしい。緊急お誕生日バルーン宣告は私を憂鬱にさせた。もう誕生日に痛い思いをしたくないというのが本音だが、無事に子を産むためにも頑張るしかないよなとも思う。子が無事に誕生日を迎えられるように親も誕生日に頑張らないといけないのだ。

なぜ出てこないのかは医学的には謎らしい。早く産まれる方法はないかとインターネットで検索すると「毎日ウォーキング2時間!スクワット300回!」というサスケ妊婦のご意見、その一方でどんなに努力しても出てこないものは出てこないという意見などまぁいろんな声があり、もう出るタイミングはその子によりけりなんだろうなというのが結論であった。今まで通り適度に散歩。そのほかにバランスボールに乗ってストレッチを追加でやってみようかと思う。

最後の検診で見たわが子は少し小さめだけど健康そうで、大きなあくびをしている姿が超音波で確認できた。快適なら結構。でも今週中に出来れば出てきほしいと思っているよ、お母ちゃんは。

 

 

 

ヨガ教室に通っていた

20代の頃これだという趣味を見つけたくて様々な習い事にお金をつぎ込んでは飽きてやめてきたのだが、ヨガ教室もそのうちの一つであった。

仕事終わりに職場から走って3分ほどのヨガスタジオに直行し、ヨガに励んで帰宅するというイケイケOLみたいなことを1年半もやっていた22〜23歳の頃のわたし。ゆくゆくはインストラクターの資格も取ってヨガの講師にもなって平日も休日も多忙で潤いもあって生活力のあるわ・た・し♡になる予定であったが、その夢は実現することもなくヨガ教室を頑張った結果が10年後にブログのネタとして昇華されることになるとは夢にも思っていなかった。人生とはそんなものである。

ヨガはいろんな流派があり、ホットヨガみたいに汗水流してエクササイズするものもあれば、ハードな動きのパワーヨガ、赤ちゃんと一緒にゆるやかに運動するマタニティーヨガやハンモックの上でヨガするハンモックヨガなどいろんなタイプのヨガがある。わたしが通っていたヨガはインターナショナルヨガというヨガのポーズだけではなく精神性を重んじるヨガで、一言でいうと摩訶不思議なヨガに通っていた。何故よくわからないヨガに通っていたかというと、職場から走って3分だったことと意味のわからないことをわかりたいという探究心がそうさせたのであった。

このヨガ教室は少人数制で生徒はわたしの他にOLが一人いるかいないかで、どうやって切り盛りしているのか謎であった。そして5回目のレッスン以降共にレッスンに励んでいたOLとは2度と会うことはなくなり、先生とマンツーマンになった。先生はわたしの5歳くらい年上の女性で、風貌はガリガリのエキゾチックなこけしという感じであった。

ヨガのレッスンは1時間強くらいであった。まずは瞑想から入り精神を統一させる。瞑想を15分から20分くらい行ったあとは、先生の動きに合わせてヨガのポーズを取る。だいたいこれも20分くらい。体をほどよく動かした後は部屋の照明が落とされ、仰向けになって目をつぶる。そうすると先生がタオルケットを静かにかけてくれる。この休息の時間がだいたい15分くらい。そして先生が部屋の照明を再度明るくして5分くらい瞑想をし呼吸を整え終了というのがインターナショナルヨガの大まかな流れであった。

わたしはインストラクターを目指していたので、先生や片岡鶴太郎のようにガリガリになってヨガっぽい体つきになりたかった。だからレッスンの時間は体を動かす運動で全て使い切って欲しかったのだが、インターナショナルヨガとはどうやらそういう考えではないらしい。精神を穏やかに整えることを重んじ、とにかく体と心の声をよく聞きなさい。とエキゾチックこけし先生から言い聞かされた。ヨガのポーズができているのかできていないのかわからず、先生に質問しても「ポーズにこだわらず、体が思うように動かしなさい」と言われるため、できてるのかできてないのか最後までわからぬままポーズをとり続けた。

ポーズに関してはさほど熱心に教えてくれなかったが、先生は私の体の声が聞き取りやすくなるように色々なことをやってくださった。瞑想の時間に良い音の鐘を鳴らしてくれたり、休息の時間にファンファンいう楽器を耳元で叩いてくれたり、音響に気を使って体の声が聞きやすい空間を演出してくれた。瞑想中で目をつぶっているためどんな楽器なのかわからないが、東南アジアを思わせるようなとにかく良い音色の楽器を不定期に鳴らしてくれたのだった。

また先生は自分の体の声にも忠実であった。いつものように休息の時間になり部屋が暗くなった後、先生がタオルケットをかけてくださった。私は目をつぶり自分の体の声を聞いた。しばらくたって私の体の声が聞こえてきた。いつもより休息の時間長くないか?そろそろ電気がついて最後の呼吸を整える瞑想の時間に移る頃だろうに。薄目を開けてちらっと先生を見ると、先生も横になって休息をしている。休息っていうか寝ている。明日も仕事だしここで寝ていないで早く家に帰りたかった。腹も減った。早く起きてくれ。私の体の声がそう叫んでいる。しかし先生はなかなか起きる様子がない。電気をつけようか悩んだが先生の体がもうちょっとと言っている気がして私は先生の休息に付き合った。それから20分くらいたってようやっと先生がむくっと起きて電気がついた。その後いつものように呼吸を整える瞑想を終え、レッスンは終了。「ごめんねちょっと寝ちゃった」とか「時間遅くなっちゃったね」などの声かけは一切なかった。体が思うままにを先生が身をもって示してくれたエピソードである。

インターナショナルヨガは私がイメージしていたヨガのイメージとは随分異なってはいたものの、先生とのマンツーマンレッスンをそれなりに楽しんでいた。

しかし、そんなインターナショナルヨガ教室に変化が起きた。いつものように仕事終わりに走って教室に到着すると、こけし先生の他タンクトップ姿のガタイのいいおじさんが立っていた。

ガタイのいいそのおじさんは新しい生徒であった。普段はラグビーのコーチをしているそうでパフォーマンスの向上のためにヨガを習いだしたそう。そうしてその日からほぼ毎回のレッスンで私はこのおじさんと顔をあわせるようになった。

正直私はこのラグビーのおじさんが嫌で嫌で仕方がなかった。別に何をされたわけではないのだが、存在が嫌だった。肌荒れのひどい武藤敬司みたいなその見た目。嫌だった。身長が低くやたら発達したヒラメ筋も嫌であった。また何かポーズを取るたびに「あー」「はー」と吐息を漏らすところも嫌だった。このおじさんが現れてからというもの、わたしの体の声に耳を傾けると毎度「悪寒」と訴え、例え先生がいくら良い鈴の音を鳴らしてもその声を消し去ることができないほどであった。ラグビーのおじさんにもわたしの体の声が聞こえてしまったのか、おじさんはわたしの横にヨガマットを並べることはなく後ろの方に控えめにマットを敷いていた。しかし私はその配慮も嫌だった。特にダウンドックという尻を突き出すポーズを取る時にはわたしは「あー」とか「はー」とか吐息を漏らすおじさんに向けて尻をつき出さなければならず、横も嫌だけどなんでおじさんは後ろにマットを敷いたのかと思うと悪寒の真骨頂。体の声は悪寒悪寒悪寒悪寒悪寒と叫びまくっていた。

体の声に従ってどうにかラグビーのおじさんとクラスが被らないようにできないかと先生に相談してみようかとも思ったが、決しておじさんは悪い人ではなかったので「おじさんは悪いことをした訳ではないのに可愛そうじゃないだろうか」という私の心の声が体の声に勝ってしまい、結局私は体の声には耳を傾けないようにしておじさんと一緒に半月くらいヨガをすることとなった。

 このように様々な修行を積んできたインターナショナルヨガ教室であったが、お別れの時は急に訪れた。持病の側湾症という背骨の手術を急遽受けることが決まり、仕事も休まざる負えない状況となったため、ヨガ教室も辞めることとなったのだ。

インターナショナルヨガ教室最終日。コケシ先生に急遽手術が決まったこととお世話になった感謝を伝えると、先生はふらっとその場を離れていった。そして戻ってきた先生の手には小さな花束が握られていたのだ。

「これ、今日たまたまいただいた花束なんですけど、さとみこんこんさんにあげます」

先生はそう言って私に小さな花束を渡した。

「え?でもこれ先生がいただいた花束なんじゃ....」

「いいんです。この花はたぶん、そういう運命だったのです」

そう言いながら先生は微笑んだ。

私は若干腑に落ちないような気持ちを感じながら、そういう運命だった花をありがたく受け取った。

「頑張ってくださいね!」

肌荒れのひどい武藤敬司からもエールをもらい2人に見送られながら、私は最後のヨガ教室を後にしたのだった。

 

スレンダーな体を手に入れるために始めたヨガ教室。その目的は達成しなかったものの、ヨガは奥が深く1年半という月日の中で様々なことを学ばさせてもらった。

中でも1番よく分かったことはインターナショナルヨガは私には合わない。これが1年半のヨガ教室の中で身に染みてよくわかったことであった。

 

 

 

 

 

 

里に帰った

里帰りをしてもう1ヶ月近くになる。久しぶりに生まれ育った埼玉の町で生活をして思ったことは、東京で暮らす人の方が愛想が良いということであった。都会の人は冷たいなんて聞くけど、そんなことはない。都会の人の方が感じが良い。少なくともわたしが住んでいる東京の町は、この町よりも感じ良い。

スーパーに行くとよくわかる。この町の店員は自分のことで精一杯なのか、客がきて邪魔になっていても品出しをやめないし、どかないし、挨拶もしない。客も客で、セルフレジがわからないおっさんが「すいません」じゃなく「おい!」と言いながら小銭をセルフレジに叩きつけながら店員を呼んでいた。感じが悪い。カスタネットでも叩いて呼んだ方がマシだと思った。

臨月であるわたしは暇なので毎日散歩をしているのだが、こないだうっかり散歩中に転んでしまった。ゆっくりと前に倒れながら左回旋し、無意識に腹を地面に打たないように着地した。すぐに起き上がれず、仰向けになりしばし青空を眺めた。その後ひっくり返った虫のように足をバタバタさせ体を起こす。左腕と膝がヒリヒリしている。擦りむいたと思うけど衣類で覆われていたから血は出ていなさそう。転んだ衝撃でお子の頭は悪くなっていないだろうか。そこからゆっくり立ち上がろうとしていると、自転車を押したおばさんがノソノソとわたしの横を通り過ぎていこうとした。この人は、わたしが転んでから倒れて虫みたいになって起き上がる一部始終を見ていたはずなのに無言で通り過ぎて行くのかなぁ。と思うとさみしかった。大丈夫?でもいいし、あららでもあははでもいいからなんか言ってよと思った瞬間「すみません」と自分からおばさんに声をかけてしまった。おばさんは俯いて目も合わせないまま「すみません」と小さい声で呟きそのままゆっくり通り過ぎて行った。やばい人だと思われたのだろうか。なんであんな閉ざしているのだろう。しばしおばさんの後ろ姿を眺めた後、立ち上がって散歩を再開した。

 

この町に不満を感じつつもおそらく人生で一番何もすることがない今を楽しんでいる。本を読んだり、朝ドラを見たり、朝寝したり、ブログを書いたり、昼寝したり、ネットサーフィンしたり、お菓子を食べたり、お金のこと考えたり、散歩したり最高である。実家でだらだらしていても妊婦だからと多めにみてもらえるし最高である。白くまアイスあずきバーが最近のお気に入り。一向に懐かない実家の犬が膝の上に乗った。姪っ子にシールをあげて機嫌を取るなどささやかな毎日を送っている。

予定日を過ぎたが一向に出てくる様子のない我が子。あの時の転んだ衝撃で出かたがわからなくなってしまったんじゃないかと母は心配している。

 

ほくろと小杉

口元にあるホクロはセクシーなんて言われるが、セクシーのセの字の恩恵も受けていないのに私の口の周りには2つもホクロが付いている。この2つのホクロ、小学生のころはすごくコンプレックスであった。

「口元のホクロはセクシー」というよりも「口元のホクロは食いしん坊」との認識が強く鏡を見るたびに口元のホクロ→食いしん坊→卑しい=小杉 の方程式が成り立って嫌気がさしていた。

小杉とはちびまる子ちゃんに登場するまるちゃんの同級生である。小杉はとにかく食い意地が張っており、食べ物に対する執念が凄まじく見る者を不快にさせるキャラクターである。インターネットで「ちびまる子ちゃん 小杉」で検索をすれば「ちびまる子ちゃん 小杉 クズ」が関連ワードに出てくるほど嫌われている男、それが小杉である。

食いしん坊ほくろがついている。しかも2つも。「よく食べる女・卑しさ2倍・小杉」と鏡で自分の顔を見る度に食いしん坊のキャッチフレーズが飛び交った。食いしん坊でなければホクロも気にならなかったのかもしれないが、現にわたしは食いしん坊だったため、周りの人から小杉だと思われていないだろうかと気にしていたのであった。

せめて食いしん坊ほくろが1つだったらここまで落ち込まないのに。鏡を見てそんなことを思っていた時にいいことを思いついた。ほくろが嫌ならほくろを取ればいいと。

思い立ったら吉日、わたしは女性用顔そりで自分のほくろを1つとってみることにした。頰を膨らませ、ほくろをカミソリで削いでいくと、ほくろの周りから血が滲み出した。痛い。涙を浮かべながら鏡の中を見つめる。小杉...

ほくろはしぶとくなかなか取れなかったが、ここで止めたらなんのために血を流しているのかわからない。卑しい称号はもう嫌だ。鏡の中の自分を見つめながら小杉を思い出し活を入れると、中途半端に削がれたほくろを手でつまみ引っ張った。痛い痛いと思いながらじわじわ引っ張ると食いしん坊ほくろはポロリと取れた。取れた。ほくろが取れた。嬉しい。ほくろが取れたあとの皮膚はピンク色に陥没したようになっていた。ヒリヒリと痛みがあったが小杉から解放されたことが嬉しくてそんなことは気にならなかった。

それから数週間後。わたしの食いしん坊ほくろは再発した。どうやらほくろというのは表面上の問題だけではなく、皮膚の深部にもほくろの要因があるらしい。あの流血はなんだったのだろうか。また鏡を見るたびに小杉を思い出す生活が始まってしまい落ち込んだ。

しかし月日が流れると歯が邪魔で口が閉じない、鼻の穴が大きい、顎に梅干し、首がない、眉毛が毛虫などティーンエイジャーは大忙しで小杉どころではなくなり、ほくろが気にならなくなった。

そして現在は食いしん坊ほくろ2つ分の食い意地を使って皿までなめる勢いの食欲を日頃発揮している。その甲斐あってなのか、最近わたしの唇に新しいほくろが誕生し食いしん坊ほくろは3つになってしまったのだった。

はじめての入院

たしか4歳くらいの時の話なのだが二階建ての社宅の古いアパートに住んでいた当時、そのアパートに住む子供たちと外で遊ぶことは毎日の日課であった。この日も5、6人で追いかけっこのようなことをして遊んでいたかと思う。子供同士でキャッキャッと遊んでいると2階のおばさんの部屋の排水路から水がチョボチョボと滴ってきた。この水の正体は洗濯機の排水である。古いアパートのため洗濯機は外置きとなっており、おばさんの洗濯排水がベランダから排水路を流れて下の階に滴り落ちてきたのだ。

その排水の出口が丁度遊んでいた子供達の目線くらいのところにあるものだから、子供たちは上の階からチョロチョロと流れ出る排水に興味を示し、おままごと用のコップを持ってきて汲んだりして遊んでいた。

もちろん私もチョロチョロと流れる排水に興味津々だった。そして排水を見て幼少の私が思ったことは ハイジの湧き水 であった。当時「アルプスの少女のハイジ」にハマっていたため、なにかと日常生活をハイジにこじつけて生きていた。

ハイジが住んでいる町を離れてアルムの山のおじいさんの家に向かう途中「暑い」と言いながら街の湧き水をすくって飲むシーンがあるのだが、どういう訳かそのアルプスの街の湧き水と埼玉の古アパートの排水が重なって見えてしまい、埼玉の少女さとみこんこんは洗濯排水を手にすくって飲んだのであった。ゴクンゴクンと上機嫌で排水を飲んだあと周りを見回すとドン引きする友人らの顔がずらりと並んでいた。さらに「何やってるの?」の声で後ろを振り向くと険しい顔の姉。これは完全にまずいやつだと小さいながらにその空気を感じ狼狽えた。ハイジになりたかった。ただそれだけなのに。この空気でそんな弁解もできず、私はただ黙って立ち竦んだのであった。

その夜。姉はもちろん洗濯排水を飲んだ妹のことを言いつけ、両親からこっぴどく叱られた。両親は激怒しながら「お姉ちゃんは死にたいんだって」と下の妹に言いながらこちらに冷たい視線を送った。辛かった。死にたいわけじゃなくハイジになりたかっただけなのに..そんなことも言えず私は泣きながら布団に入った。

翌日、何事もなく朝を迎えやれやれと思っていると昼過ぎに急に吐き気と腹痛に襲われた。とにかく気持ちが悪く「気持ち悪い、気持ち悪い」と母に訴えた。やはり昨日のあれが原因か...本当に死ぬのかもしれないとワンワン泣いた。

そうして私は母に連れられ、住んでいた町の中では比較的大きな総合病院へと向かった。

お医者さんにも洗濯排水を飲んだことで怒られるのかな...などと不安に思っていたのだが診察後、医者から告げられ診断結果は「盲腸かもしれないので今日は泊まって下さい」というまさかの答えであった。そのまま診察から入院へと移行していくのだが、てっきり洗濯排水を飲んでしまったことが原因だとばかり思っていたため、不安とか恐怖よりもなぜだ?が先行しわけもわからず病院のベットで横になっていた。洗濯排水を飲んだと知った時はめちゃめちゃ怒っていた母だったが横に付き添う母は「大丈夫だよ」と優しく声をかけてくれ、その声に安堵したように記憶している。

翌日。病院で盲腸の検査を受け、最終的になぜか病室のベットで尻を出すように促された。ギャーギャーわめく私を母が抑え、瞬時に看護師さんが私の尻に注射をした。数分後、猛烈な便意を感じ母に付き添ってもらいトイレに篭った。なんだよあの注射。後にそれは浣腸であったことを知るのであった。

はじめての入院は結局「盲腸の疑い」診断結果「うんこのつまり」ということで翌日、私は晴れて退院ということになった。

 

入院した経験というものは幼い頃はちょっとした自慢になるものだが、原因:うんこのつまりである私は入院した事実を心の片隅にしまい、誰にも話すことなく過ごしてきた。

そうして大人になった今、そろそろ胸の内を明かしてもいいかなとここに綴ることにしたのである。