麻布十番のエレベーターの中で

先日用事があり麻布十番のマンションを訪れた。

用事を済ませ、マンションの12階からエレベーターに乗り1階のボタンを押した。エレベーターの中には私1人だった。ぼんやりエレベーターに乗っていると7階でエレベーターが止まり、茶髪のマスク姿の女性がベビーカーを押しながらエレベーターに乗り込んできた。ベビーカーには幼い子供、そして1〜2歳くらいの目のクリっとした女の子が女性の胸に抱き抱えられていた。

狭いエレベーターは私と女性とベビーカーで満員となり身動きの取りづらい状態となった。窮屈なエレベーターはなんとなく気まずかった。誰も声を発することはなくエレベーターは静かに下っていく。視線を下に向け体を小さくしてエレベーターが1階に到着するのを待った。そして私は気づいたのだった。何か感じると。俯いた状態から何かを感じとって目線を少し上に上げた。何かの正体はベビーカーに乗った赤ん坊の視線だった。

赤ん坊は表情も変えぬまま、瞬きも身動きもせずにじっと私を見ていた。真剣にこちらを見ている。このままだと私が石にでもなるんじゃないかと思われるほど凝視している。なんだか怖くなり、堪らず赤ん坊から目を逸らし右側に視線を逸らした。

視線を逸らすとまた目が合ってしまった。今度目が合ったのはマスク姿の女性に抱き抱えられている女の子であった。クリっとした瞳でこちらもじっと私を見ている。なんでなのかはわからないけれど、こちらも石になるんじゃないか、もしくは穴が開くんじゃないかというほど私を見ている。

2人の幼い子供にじっとりと見つめられ、気まずさと居たたまれなさは最高潮に達した。逃げ出すこともできず、気づいた時には「ははは」と声を出して笑っていた。静まり返るエレベーターで壮年女性が突然笑い出した。幼い子供たちの視線よりも怖いのは確実に私である。

まずい。このままだと不審者である。私は自分を擁護するために目線を下に向けたまま「すみません、2人がすごい見てくるので」とボソボソとマスクの女性に訴えた。

するとその数秒後、マスクの女性は甲高い声で笑い出した。手まで叩いている。ウケてる...すごい笑っている。「こ、この耳あてかな...耳あてが気になるのかな〜?」続けてボソボソと呟いた。

私は最近毛がモシャモシャした耳あてをして歩いている。最近気づいたのだが、東京で耳あてをして歩いている人などほとんどいない。この冬私以外に耳あてをつけていたのは今のところ、飲み屋の隣の席のサラリーマン、電車で隣に座った中学生、友人、そして私の4名だけである。私が耳あてをしている姿を見て実家の犬がすごく興奮していたので、もしかしたらこの赤子達も耳あてに興味を示したのかもしれない。ましてやここは麻布十番、耳あてをしている人もまぁ、見かけないのだろう。

そんなことを思って呟いた「この耳あてかな〜?」の言葉がマスクの女性にも響いたようで女性はさらに手を叩き笑い出したのであった。

女性がヒーヒー言っているので、私もハハハと一緒になって笑っていた。するとさっきまで女性の胸に抱かれ真顔でガン見していた女の子もへへへと声を上げて笑い出したのであった。

静寂するエレベーターの中は一転し和やかな空間に包まれていた。ハハハと笑いながら「お子さん何才なんですか?」と女性に尋ねると「3ヶ月と、2才。もー猿の子かってほどキッキッうるさくて〜」と答えてくれた。女性の声は酒焼けして掠れていた。

その後エレベーターは1階に到着し、女性はベビーカーを押しながらぺこりと頭を下げて歩いていった。私はエレベーターの開のボタンを押しながら「またね」と手を振って見送った。また会うわけないだろうが、またこの親子に会いたいなと純粋に思って出た言葉だった。

駅までの道のりは高層マンションが連なり、閑散として生活感の欠片も見当たらない。この街に住む人はほんの一握りの特別な人種で、生涯私とは縁のない街だと思っている。マスク姿の若い女性はどうしてこの街に住むことになったのだろうか。「猿みたいにキッキッうるさいの」と酒焼けして掠れてた声が頭の中で繰り返されていた。