ピラティスに通っている

強欲なわたしですから、30を過ぎてもそれなりに小綺麗にして健やかな人間でありたいと願ってしまうもんで、こそこそアンチエイジングに励んだりしている訳である。

その一環で、2年前から友人が始めたピラティス教室に通っている。猫背を治したいとかたるんだ二の腕を引き締めたいとか見た目の改善の目的もあるのだが、将来尿もれで悩みたくないとか、年金も当てにならないし寝たきりになっては困るなど先々を見据えて筋トレをしていくことを決めたのだった。ちなみにピラティスピラティス氏が負傷兵のために考案した筋トレメゾットみたいなものである。

最初は4〜5人を対象としたグループレッスンを受講していたのだが、人の失敗に敏感に反応してしまうわたしはフォームが維持できず崩れ落ちる人を見てはニヤついていた。唇を噛み締め壁を一点見つめ、腹筋におもいっきり力を入れて笑いを堪える。そのことが結構しんどく、さらにツボに入ると後を引くというタチの悪さも相まって3回ぐらいでグループレッスンを辞めることにしたのだった。「人が失敗すると笑ってしまうのでグループレッスンをやめる」と正直に先生に伝え、それからというものプライベートレッスンを受講している。しかしプライベートレッスンは少々金額が高くなるので、細く長く続けるためにはやっぱりグループレッスンも併用しようかと考えていた矢先、なぜかわたしがグループレッスンを辞めた理由が他の受講生の耳に届き「最低」と言われている事実を先生から伝えられ、再起不能であることを知るのであった。

そんな訳で2年近くマンツーマンで指導を受けている訳なのだが、自分の体なのに今まで気がつかなかった発見がたくさんあった。背骨が硬いとか足首が硬いとか足の指が全く動かないとか息が吸えないとか、日常生活で気が付かない体の指摘を受けそれを改善すべく地味な運動を指導された。最初はひたすら息を吸ったり吐いたりする運動をしていたのだが、これだけで酸欠を起こしてしまったこともあるくらい私の体は腐っていた。足の指を動かすだけで汗をかき、足をつって悲鳴をあげることもあった。これで人のことを笑っていたのだから最低と呼ばれてもしょうがない。そんな現代の負傷兵が定期的に通い続けた結果、息も吸えるようになり足指も動くようになった。さらに通って半年くらい経つと痩せたねとか首ができたねとか嬉しい言葉をかけられるようになった。おそらく小さい体の負担や歪みが蓄積した結果が体型となって現れるのだと思う。まだ猫背だしくびれもないし足首も硬いし改善点はたくさんあるのだが、気長に続けていこうと思う。

 

 

 

盗作をしてしまった

最近盗作をしてしまった。ある人の表現を真似してしまったのである。やっぱり?もしかして?と思った人がいたらすみません。そうなんです、真似しました。弁解させてもらうと悪気はありませんでした。気づいたらやってました。申し訳ありませんでした。

わたしの盗作を1番に気づいたのは夫だった。夫はわたしの一読者としてブログやサイトの記事にほぼ目を通してくれている。 ある日わたしが元気よくツイッターをしていると「ねぇ!この記事さ、Aさんの表現の真似してない?」と夫に物申されたのであった。 「え?そんなことないよ」と半ギレ気味で返事をし、ツイッターをやめてすぐに自分の文章を確認すると「たしかに...」と認めざるを得ない事実がそこにはあった。 「これ読んでさ、Aさんの真似してるって思う?」と念のためもう一度確認すると「でしょうねぇ...」と表情も変えずに淡々と答える夫。

やった、やってしまった。盗作だ!!思い当たる節はあった。Aさんの記事が素晴らしい!と、事が発覚する3日前くらいに、Aさんの記事をコメント付きでツイッターリツイートしたのであった。Aさん素晴らしい!Aさん素晴らしい!のテンションで書いた文章。その結果、完成したそれはAさんの要素が織り交ぜられた仕上がりとなってしまった。

(真似したっていうかAさんにインスパイアされたからなんだけど......いや、でもそんな事言っても通じないか...)

田口ランディ安倍なつみに次ぐさとみこんこんの盗作。安倍なつみは盗作をした事態を重く受け止め活動休止をした。私もサイト及びはてなブログを自粛するべきか....いや待て?もしかすると夫婦間でしかわからないレベルの盗作の可能性もある。それなら以後厳重注意でいけるか?

そこで私は早急に第三者委員会を勝手に発足し、連絡を取ることにした。連絡をした相手は我が社のCEO(私のパクった記事を運営するサイトの管理人)であった。

「すみません、実は私のこの前サイトで公開された記事なんですが、夫にAさんの真似をしていると指摘されまして...あの、そう思いましたか?」

 

「正直そう思いました」

 

「!!!?!!!」

 

何で言わないCEO!言ってくださいCEO!CYOTTO ENRYOSHINAIDE ONEGAISHIMASSE!

とこんなことは思わず正直マジかよの言葉しか浮かびませんでしたが、第三者委員会も黒と判断を下したということは、これは夫婦間で済まされる問題ではないということがわかりました。

とりあえず、今回の件は「わざとじゃないんです」の意思をはっきりと第三者委員会に伝えた上「私は人の影響を受けやすいため今後も同じような過ちを犯す可能性がある。その時は指摘してほしい」と今後の対策をしっかりと添えて返信したところ、第三者委員会a.k.a CEOからはなんの音沙汰がないまま今に至っております。

何で言わないCEO!!CYOTO EEE????OHENZIHA??????とも思わず正直無視かよの言葉しか浮かびませんでしたので、私は次の対策へと移りました。

謝罪文の作成。今書いているこのブログです。本人に直接お詫びのメールを送ることも考えましたが、そもそも本人が気づいているのかわからないし、いきなり真似してすみませんと送られても困るだろうし、だけど万が一私の文章をご覧いただき「この見覚えのある文章....このアマ!」と思われていたら辛いものがあります。ですからせめてお詫びの言葉を記したい。世間的にも何か問題を起こした際は早急な対応・謝罪会見が良しとされる今日であります。影響を受けやすい私ですから世の中の流れに従って謝罪ブログを心を込めて記したいと思います。

 

Aさんへ

この度は申し訳ありませんでした。

Aさんの文章をいつも楽しく読ませていただいています。Aさんの文章はいつも面白く、私の骨の髄までしみています。そのひたひたに染みた状態で自分の記事を作成したらあのような仕上がりになってしまいました。申し訳ありません。しかも似せたわりにたいして面白くない仕上がりで恥ずかしく思っています。またAさんの気分を悪くさせていないかと心配に思っています。今後はこのようなことがないよう、厳重に注意し文章の作成に励んでいきたいと思っています。           

さとみこんこん

 

気をつけよう。無意識で盗作なんてタチが悪い。気をつけよう。と肝に銘じた時、ふと思い出したのは半年前の出来事だった。

 あれは飲み会の席だった。

あの日はラッキーなことに私の好きなライターさんの隣でお酒を飲んでいた。ラッキーラッキーとほろ酔いで酒を飲んでいる私に「あの、我々の文章って似てると思いませんか?」と好きなライターさんから尋ねられたのであった。

え!光栄だなと思い「光栄です!光栄です!」と素直に光栄とだけ言って終わったのだがあの時のあれって「あの、文章真似してますよね?」そういう意味だったのかなと思い、マジかよの言葉しか浮かんでこないのですがどうなんでしょうか。みなさんはどう思いますでしょうか。

吉澤ひとみが事故を起こす前から田口ランディ安倍なつみと書いていたのに意識的に安倍なつみを使った感、これはみなさんはどう思いますでしょうか。

 

 

 

突然の来客

生まれてから小学校5年生くらいまで社宅のアパートに住んでいた。「けやき荘」と「銀杏荘」という名前のアパートが2棟並んでいて、我が家は「けやき荘」の住人であった。古くてボロいアパートの上、名前がダサすぎるのも嫌だったけれど、アパートには子供も多かったし、住んでいる住人は陽気な人が多く退屈はしなかった。

けやき荘の住人「堀池さん」はとにかく面倒見がよく声が大きかった。堀池さんは2階の住人で、板前の旦那さんと私より4つ年上の「なり君」という息子と3人で暮らしていた。新鮮な魚が手に入れば、綺麗に捌いて刺身にして我が家に持ってきてくれたり、運転のできなかった母を誘っては車に乗せてちょっと距離のある激安スーパーに連れて行ってくれたりしていた。暇な時は「いるー?」と大声で外から声をかけ、一階のうちの窓をガラっと開けて勝手に家の中を覗いてきたりと、少々大胆な行動をとる人だった。見た目もショートカットでずっしりしていたので私も姉も妹も「堀池さんは男なのか、女なのか」と小さい頭をそれぞれ悩ませていた。しかしその答えは堀池さんとお風呂に入った時に解決したのであった。面倒見の良かった堀池さんの家で何故か堀池さんと一緒にお風呂に入った時、母のよりも大きかった堀池さんのお胸を見て「堀池さんは女」と判断したのであった。フェロモンっていうのは誰もが持っているのかわからないけれど、堀池さんからはたぶん「男気」が漂っていたのだと思う。だから小さかった我が家の三姉妹は男か女かで困惑してたのだと思う。

そんな男前な堀池おばさんのある日の話である。午後の昼下がりに堀池さんがけやき荘のお家で寛いでいると、突然玄関のドアがバタンと開いて人が入ってきたのであった。

「助けてくれ!!!」とドカドカ部屋に上がってきたのはなんと頭から血を流した男だった。さすがに堀池さんも驚いたのか、慌ててうちの家にやってきた。どうやらヤクザかチンピラに追われて逃走中の人だったらしく、たまたま堀池さんの家に助けを求めて上がり込んできたようだった。その時の堀池さんはパニックというよりは「ねぇ、どうしよう〜」と面白い話をしにうちにやってきたような感じだった。結局その追われた男を毛布でぐるぐるに包んで車に乗せて、堀池さんがどこかに逃がしてあげたのだった。ぐるぐる巻きの男を後部座席にのせた後、運転席でハンドルを握りしめた堀池さんが颯爽と車を走らせていく様子は今でも覚えている。堀池さんかっこいいなと小さい頃のわたしは思ったのであった。

そんな昔の出来事を思い出したのには理由があった。先日うちの家の前で知らないサラリーマンがスーツ姿で酔っ払って寝ていたのだ。ちなみにうちはマンションの4階で、エレベーターがないので階段で上がってこないと辿りつけないのだが、酔っ払いは朦朧とする意識で4階まで上がり、そして何故かうちの家の前で力尽き寝ていたのであった。「いってきます」と出勤する夫が玄関を出たところで寝転がる酔っ払いと遭遇。夫は寝ている酔っ払いを起こして「ここで寝るのはちょっと迷惑です」とひとこと言うと、酔っ払いは「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりじゃなかったんです。」と言って起き上がり、ヨタヨタ階段を降りてタクシーをつかまえて帰っていたのであった。なんでうち?と不思議であったが、基本的に酒のみに寛大な我が家である。もしかしたら玄関のドアをくぐり抜け「酒飲み万歳」の心持ちが漂っていたのかもしれない。はたまた酒臭いのか...

あの時堀池さんの家を訪ねてきた逃走者は、もしかしたら堀池さんの男気をどこかで感じとって部屋に上がり込んできたのであろうか。なんでわざわざ2階の堀池さんの家だったのかずっと不思議に思っていた。あの後上手く逃げきったのであろうか。そんな昔のことを思い出しながら、あぁ、あの酔っ払いにコップ1杯の水でも飲ませてあげればよかった。なんて思ったりしたのであった。

 

 

SETAGAYAバブル時代

あっという間に30を超えるとおしりも垂れ始め、順調におばさんの道を歩んでいるわたしであるが、わたしにだってイケイケでバブリーな時代くらいあった。あれは26歳の時だった。当時彼氏は医者の息子。世田谷生まれ世田谷育ち代々医者のご家庭に生まれた彼の彼女としてはりきっていた時代。それがわたしのバブル期である。世田谷の一軒家に住んでいた彼の家にはお手伝いさんがいた。お手伝いさんもいれば、トイプードルもいるし、庭には鯉が何匹か泳いでいた。イメージ通りの金持ちライフを送る彼を見て、影響の受けやすいわたしが庶民を貫くわけがなかった。世田谷の街をどう見ても気乗りじゃないトイプードルと一緒に散歩し「お食べ」と率先して鯉にエサをやった。彼氏の家でカレーを作るために世田谷のスーパーで買い物をした時はもうセレブを気取って大変であった。値段も見ずにどんどんカゴに食材を入れる彼の姿を見てわたしも負けじと「世田谷!世田谷!世田谷!」と世田谷のリズムにあわせてどしどしカゴに物を入れていった。世田谷のスーパーから買ってきた食材を、世田谷のキッチンで調理して、世田谷の家で出来上がったカレーを、世田谷の家で食べたあの日・あの時をわたしは忘れない。そんな世田谷かぶれな26歳だった私ですからあのことを考えない訳がありませんでした。あのことそう「結婚」です。

(彼と結婚したらわたしは医者の夫人。)

妄想は続く。

(今日は旦那が教授を連れて家にやってくる日。気難しいと評判の教授らしく緊張する私。しかし教授が私の手料理を食べた瞬間「旨い!実に旨い!君の奥さんの料理は絶品だな。よし、今度の学会の件は僕に任せたまえ」こうして夫の出世に一役買ったわたしは最高の嫁として院内でも評判に....)

妄想はまだ続く。

(世田谷在住さとみこんこんさんの今日のファッションコーデです。ファッションポイント:医者の妻としてエレガンスさを大切にしつつコンサバティブになりすぎないよう意識しました。『医者の嫁になるための100の秘訣』絶賛発売中です!..... こうしてわたしなVERY妻の憧れとなった)

大変だ、めっちゃ忙しい。それにこのままのわたしじゃだめだ...そうと決まれば自分磨きである。そんな一歩も二歩も三歩も先を読んで行動するわたしが向かったのは、都内某所の和食料理教室でした。1レッスン8700円と少々お高い金額でしたが「医者の嫁になるんだからこれくらいの投資をしないと」を合言葉に1年近く通ったのでありました。はい?ABCクッキングスタジオで良かったのでは?いい質問ですね。「教授を唸らし出世コース」が狙いですから、日本料理をさっと出せるレベルにならないといけません。従って1レッスン8700円の和食料理教室に通う必要があったという訳です。えぇ、そうなんです。

お稽古は、だいたい5〜6人の生徒さんと一緒に四季折々の献立を先生の指導の元作っていった。料理経験は多少はあるが実家暮らしをしていて母に料理は任せっきりだったため、ろくすっぽ私は料理ができなかった。またわたし世代の人はほとんどおらず、だいたい35歳〜50歳の女性がメインであったため、おそらく料理教室では最年少、料理経験もほとんどない上にまだ世田谷にも住んでおりませんでしたから料理教室のヒエラルキー的に私は下の下でありました。そういう分際は料理教室で何をするかというと、もっぱら皿洗いに徹するという風潮がありました。だってやることがないのだから。

「このお魚を捌きましょう」こういのをやりたかったのだが、料理教室も立派なお魚を人数分も用意する訳にもいかず、代表2名ないし3名が魚を捌くことになっていた。この立派なお魚を捌く人選は先生のご指名ないし挙手で決まるのだが、挙手をする者などなかなかいなかった。なぜかというと万が一失敗すると分け前が減るダメージだけではなくメンバーインスタ映えを台無しにする責任がついてくるからであった。仕上がった美しいお料理を写真に撮ってSNSで公開するのも大切な活動の一つ。これはカリスマVERY妻を目指す私だけではなく他の生徒さんにとっても大事な活動であった。中には一眼レフを持ち込む気合いの入った生徒さんもいた。先生もこの辺りは心得ていたようで、上手にできそうな人を指名することが多かった。大仕事が決まった瞬間、じゃあ私はこれを。じゃあ私はこれを。と諸先輩方は当たり障りのない仕事に皆一斉に取り掛かってしまうので私はいつも仕事を失っていた。結果皿洗いという一連の流れが確立していたのである。しかし先生も8700円払って毎度皿洗いをさせるわけにもいかないので、野菜の塩もみや、ゴマをすり鉢でする仕事や、揚げ物の見張り当番などをわたしに任せてくれた。しかし時々何を思ったのか「さとみこんこんさん、この鱧を捌いてみましょう」と突然ハイレベルな仕事を私にぶつけてくる日もあった。は、ハモですか先生!と先生のご指名を受けてみんなの前で捌いたあの日の鱧。あれは忘れられない。あの日の皆の視線を忘れられないのである。大切な鱧をズタズタにしてしまった記憶があるが、もう一生鱧を捌くこともないだろうから良い経験になったと今では思う。

この料理教室では希望した日にたまたま揃った5人ないし6人で料理を作っていたので、顔なじみくらいの人はできたが1年通っても互いに自己紹介をして仲良くなるような人は現れず、顔と名前が一致する人物がほぼいなかった。しかし生徒の中で1人だけ一致する人物がおり、それは私だけではなく他の生徒も一致していたようであった。その人は「永田町の奥様」と呼ばれる人物であった。ある日隣の女性が急にラッピングされた手作りのお菓子を私に渡してきた。「え?これは...」と尋ねると隣の人が小声で「あの....永田町の奥様からです」と答えたのであった。永田町の奥様はよくお手製のお菓子を作ってきては皆に配ってくれたのだった。どうして永田町の奥様が永田町にお住まいという個人情報がバレてしまったのか知らないが、皆なぜか周知の事実であった。つまり私もお手製の菓子など持ってきて世田谷世田谷と口ずさめば「世田谷の奥様」を確立させることができるのではないだろうか。これはヒエラルキーの向上→皿洗いからの脱却であります。この時から私は永田町の奥様についていくことを決めたのでした。

このまま永田町の要素を取り入れつつ世田谷は大きく発展していく。そう誰もが信じて疑いませんでした。しかしバブルというのは泡の如く消え行く様を表す言葉。日本のバブル期は51カ月で崩壊へと向かったのですが、私のバブルはなんと6カ月で雲行きが怪しくなり9カ月で崩壊しました。一説では実質6カ月で終わっていたと分析する専門家もおります。つまり世田谷も崩壊、VERY妻は引退、『医者の嫁になるための100の秘訣』は廃刊に追い込まれ、私に残されたのは8700円の料理教室だけでした。世田谷ブランドが使えないのなら菓子を配ってもしょうがない。結局わたしは料理教室に一度もお手製の菓子を持っていくこともなく、皿洗いの川口として誰からも覚えられることなく1年間をやりきりました。しかし8700円払って懸命に通ったわけですから身についた知識や技術もあります。せっかくですから以下にまとめてみました↓

①「肉でも魚でも焼く時も煮込む時もとにかく酒をふんだんにかけろ!!」(料理酒ではなく日本酒の方が良い。さらに小さな霧吹きに日本酒を入れておくと大変重宝いたします)

 

②魚のはらわたは歯ブラシを使って洗うとよく洗える!!!


③柿は白和えにすると旨いし、きな粉をまぶしても旨い!


イカが捌けるようになった。


以上です。そしてバブル崩壊後の世田谷の奥様の現在はというと、中野の奥様として築40年のヴィンテージマンションに住んでいるそうです。


薄っぺらい脳

タイのチェンマイを夫と2人で旅行した時の話である。その日はよく晴れて汗をかきながら旧市街をウロウロ歩いていた。すると突然雲行きが怪しくなりポツポツ雨が降り始めた。夫とわたしは慌ててトゥクトゥクに飛び乗ってホテルのある方向へと戻った。今日の予定ではホテルに戻る前にニマンヘミン通り近くにあるアクセサリー屋に立ち寄る目的であったが、外は雨というより大雨。横なぶりの雨がトゥクトゥクの中にも入ってくるほどであった。しかし行きたかった店である。明日は明日の予定があるしできれば今日その店に行きたい。通り雨だろうということで、ニマンヘミン通り付近でトゥクトゥクを降りた。大雨の中を走り、一件のカフェで雨宿りをすることにした。ニマンヘミン通りはお洒落なカフェが多く、代官山や中目黒にあっても違和感のない素敵なカフェが多かった。そんな洒落たカフェでアイスコーヒーを買って屋根のついたテラス席に座った。喫煙家の夫はタバコを吸っていた。わたしは携帯を見たりボーッとしたりしながらテラスで時間を潰していた。雨は一向に止まず、激しい雨音をたてて降り続いている。すると1人の男性が店内から出てきてわたし達の席の前で立ち止まり、一緒に座っていいかとジェスチャーをした。どうやらテラス席でタバコを吸いたいらしい。わたしたちもどうぞのジェスチャーで彼を迎えた。

「Japan?」と彼はタバコに火をつけながら私たちに尋ねた。得意げに「yeah!」と笑顔で返し、あなたの出身はとぎこちなく尋ねた。すると彼は首を横に振って、携帯を打ち込み始めた。そしてくるっと向けられた画面には日本語で「英語はわかりません」の文字。

彼はこちらに画面を向けたまま、自分の携帯を私に手渡した。そこに文字を打ち込んでくれと促す。日本語でどこに住んでいるのかと打ち込むと中国語に変換された。変換された文字を見て「China 北京」と彼は笑顔で答えてくれた。

会話で意思の疎通ができない我々は、インターネットの翻訳機能を介してコミニュケーションを取った。チェンマイには旅行できているのか、1人で来たのか。彼はテラス横のガラスの壁を指差し「家族」と答える。指を差した店内には小さい女の子と若い女性が横並びで座っていた。どうやら家族旅行で来たらしい。それからいつまでチェンマイにいるのか、チェンマイは初めて来たのかなど当たり障りのないことを彼に聞いた。少し会話が弾んできたころで彼は「僕は日本が好きなんです」と我々に伝え、ニコッとした。そしてまた再び打ち込まれた画面には「僕は本当のことしか言わない」と書かれていた。思わず「私たちも中国好きだよね?」と夫に向かって日本語で返してしまった。

我々も中国好きですよ?という旨を彼に伝えると胸に手を当てて微笑んでくれた。

その後彼は「僕は日本人の気質が好きなんです。中国は50年経っても日本の気質には追いつけない。」という文字を我々に見せた。意外な言葉にありがとうと返すも、そんなこともないのでは...と少々戸惑ってしまった。「娘も東京の学校に入れたいと思っている」と彼は続けて言った。

彼が吸う細いタバコはあっという間に消費され、次から次へと新しいタバコに火がついた。そして自分の吸っている細いタバコを夫にも「どうですか?」と一本差し出して勧めていた。夫の横に置かれたタバコの箱にはまだ何本もタバコが入っているのに、それでも彼は自分のタバコを差し出し夫に分けてくれた。

「僕は中国の封建思想が良くないと思っている」再びこちらに向けられた画面にはこのように入力されていた。私はその画面をみても頷くことしか出来きず、何も返す言葉はなかった。

時々彼は酷く咳をして噎せていた。「風邪じゃないので心配しないでください。昔から気管支が弱いんです」じゃあ何本も吸うんじゃないよと思いながら、先程から彼が我々を気遣う気持ちが嬉しかった。「僕の家には2台車があるんだけど、どちらも日本製。日本の製品は素晴らしい!」など彼はその後もとにかく日本のことを褒めちぎっていた。そんななかなか戻ってこないお父さんを気にして、彼の娘が時々テラスにやって来てはお父さんの膝の上にちょこんと座っていた。目の大きな可愛いお嬢さんだった。

結局1時間経ってもやまない雨に観念した我々は、濡れながら目的の店を探すことを決意し彼に別れを告げた。彼は小さく手を振って我々を見送ってくれたのだった。

ニマンヘミン通りはたった3時間程度の間で道路に雨水が溜まって川となった。ジャバジャバと音を立てて歩きながら、ふとわたしは思った。そういえば彼に中国の好きなところを1つも言わなかったということを。

それから2日後、チェンマイからバンコクに移動した我々は中国人街を訪れていた。赤と金を基調とした派手な看板が溢れる大通りから少し脇道に入った狭い通り道を2人で歩いた。横並びで歩けるほどの間隔がなかったので、夫を先頭に一列になって細い道を進んでいった。何故か途中、狭い路地に人々が長い列を作っていた。どうして一列に並んでいるのだろうと、列に並ぶ人の横を通り過ぎた時、突然背中に冷たさと個体がぶつかる感触を感じた。驚いて思わず悲鳴をあげた。どうやら氷の入った水を背中にかけられたらしい。背中がどんどん冷たくなった。わたしは声を荒げ「もうこんな道歩かない」と言いながら夫を抜きさり足早に細い路地を抜けていったのだった。


旅から戻ってあの時何故水をかけられたのだろうかと色々考えた。日本人だから、女だから、外人だったから、この街の者じゃないから、わたしが気に食わなかったから...色々考えたけど、よくわからなかった。「よくわからないけど、路地で水をかけられた」のである。もしチェンマイのカフェで彼に会っていなかったら、水をかけられたことを根に持って「中国人街で突然水をかけられた」と人に言っていたかもしれない。確かに事実だけどそうは伝えたくないと思った。水をかけられたのは中国人街だけど中国人とは限らないのに、わたしの話を聞いた人が中国のイメージを悪くするかもしれない。わたしも彼に合わなかったら「中国人街で突然水をかけられた」といって中国人のイメージを悪くしていたかもしれない。そう思った。

2つの出来事でわかったことは、当たり前だけれど万国共通人それぞれということであった。日本人だから、中国人だから、タイ人だから、金持ちだから、男だから、女だから、ゲイだから...わたしはそういう見方で物事を見ないようにしようと心に決めた。でもそういう見方しかできない人もいることを忘れてはいけない。そんなふうに思う。

そして彼に「中国が好き」と言ったにも関わらず具体的な点を何も言えなかったことを恥じたのだった。中国に対して特に感心も持っていないのに「好きだ」と言った自分に気づいたのである。

(薄っぺらい...)

わたしは薄っぺらく浅かった。

そんな薄っぺらい自分はインターネットを頼りに封建思想について調べるのであった。




ラーメン屋

幼少の頃から漫画やアニメが好きで、「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」など子供らしいものから「らんま1/2 」や「笑ゥせぇるすまん」などちょっと大人なアニメも熱心に見ていた。漫画は父の買ってくるビックコミックオリジナルを楽しみにしており、三丁目の夕日あじさいの唄を読む一方、黄昏流星群で大人の恋愛模様を眺めていた。
そんな渋めの作品を小学校低学年の頃から見ていたせいか、なかよしやりぼんなどの小・中学生から人気の少女漫画には一切興味が湧かなかった。
特にあずきちゃんママレードボーイには嫌悪感すら感じていた。理由は意中の男を想って顔を赤らめたりするなど歯がゆいシーンが多いことやその割に簡単にキスをすることが気に入らなかったからである。あずきちゃんに至っては(あずきの野郎はまたキスをしやがって...)などと、心の中であずきちゃんを叱咤しまくって嫌っていた。小学生のわたしは秋元康の考える小学生の恋愛物語に共感できずにいた。
今思うと男女の淡い色恋話に恥ずかしさを感じてしまう多感な時期だったのかもしれないが、その一方らんま1/2では水のかかった女らんまのおっぱいが見えるシーン、喪黒福造がBAR魔の巣で乳を出したバニーガールのトランプの絵柄を見てマスターと一緒に顔を赤らめるシーンにテンションが上がっていた。あずきちゃんが顔を赤らめるのは腹が立つが喪黒福造が赤らめるのにはグッときていたのである。今でもおっぱいを出したバニーちゃんを見て赤面する喪黒福造のあのレアなシーンを見たくてネットで検索してみるものの見つけることができない。人に言っても「?」であのシーンを知っているという者になかなか出会えないでいる。だれかいません?あの不気味な笑みのまま顔を赤らめる喪黒福造を。
男女間の歯がゆい恋愛話には苛立ちすら感じるほど毛嫌いしていたのに、ちょっとエッチなワンシーンには身を乗り出して見物する幼少期。志村けんのバカ殿様で女性をトランプカードにして勝負をするおっぱい神経衰弱は衝撃的で忘れられない。自分はキスシーンよりもお色気シーンに関心があるんだなということに幼少のわたしも薄々気づいていた。そして女のはずなのにおっぱいを見て喜んでいるぞ自分は!もしかしたら男なんじゃないか!と心配に思ったことも多々あった。そんな自分にダメダメ!とエッチな感情には極力フタをするようにして必要最低限しかシモの情報を入れないようにきてきた。そのせいか、最近知人との会話の中で汁男優をしているというジョークを理解できず、汁から連想してラーメン屋かなんかだと思ってしまい「熱くて大変ですね」と答えてしまったのであった。その夜、わたしはググってたいそう驚いたのである。そもそも男優という言葉がついているのにどうしてラーメン屋だと思ったのか、と。
このように、おっぱいだなんだと話をしたいのだがいざ話を振られると上手な返しができなかったり、反応に困って急にニヤニヤして会話をしなくなったりと、相手とコミニュケーションが取れなくなってしまう。情けない話だ。
おっぱいだおしりは勿論、性について涼しい顔で表現や主張ができる女性はかっこいい。さらにそこにユーモアがあったら最高である。最近そんなエロとユーモアのある女性の表現を見つける機会が多くなったように思うのだが、ただ単純に少しずつ自分のフタを開けて周りを見出したからかもしれない。わたしもできれば涼しい顔をして軽やかに下ネタコミニュケーションを取れる人間になりたい。もしまた職業は汁男優ですというジョークを言われる機会があったらザーメン屋ですね!!と元気よく答えてみるつもりでいるがそれで大丈夫でしょうか。

致し方なく履いたTバック

ジメジメする梅雨の時期から汗が噴き出る夏の頃まで私の右腕の肘窩にはアトピーが出現する。このアトピー、もう10年近くの付き合いである。
わたしのアトピーは20歳くらいから発症し酷い時は全身にでることもあった。幸い今は落ち着いて右腕の肘窩だけで済んでいる。
1番悩んでいたアトピー発症部位はおしりであった。おしりにブツブツがあるというだけで暗い気持ちになり、また痒くても迂闊にポリポリ掻くわけにもいかず苦しい思いをした。痒さを我慢していると発狂寸前になり、堪えていたものを発散させたときは酷く掻きむしってしまいお尻から血を流す日もあった。オイオイと思われるかもしれないが、アトピーの痒さは尋常なものではない。我慢できない痒さは20代のわたしのおしりを蝕んだ。
そんな悩めるヤングアダルトだった頃、私は実家暮らしをしていた。残念ながら実家の近くに皮膚科がなかったため、バスで往復1時間かけて駅近くの皮膚科まで通っていた。また同じような遺伝子を持つ姉もやはりアトピーで悩んでおり、姉妹揃ってこの皮膚科にお世話になっていたのだった。
皮膚科の先生は50代くらいの男性の先生で、そしてサーファーだった。
「サーファーです。よろしく」と挨拶された訳ではないが、先生、さてはサーファーだなということは診察室、そして先生の風貌からガンガンに伝わってきた。
海辺とサーフボードの写真、先生と日焼けしたロン毛の外国人男性が親指を立てて「グッ!」のポーズをする写真など、診察室のあちこちに海とサーフィンを連想させる物が置いてあった。そして先生の風貌はというと、よく日焼けした肌、キムタクの全盛期みたいな髪型、Vネックの白衣からはゴツめのシルバーネックレスが覗き、そしてのりピーの元旦那に似ていた。そのためわたしと姉の間では先生のことを「高相先生」と呼んで慕っていた。
高相先生の皮膚科は大繁盛で、連日混雑していた。混雑の理由としてこの街に皮膚科が少ないことも挙げられるが、高相先生が優しい。これも理由の1つであると思う。先生はいつも穏やかでニコニコしていた。
「こことここが痒いんです」と訴えると、「可哀想に...」と先生は悲しそうに微笑み、アトピーの腕をやさしく撫でてくれた。そして先生はナデナデした後に薬を塗ってくれた。これが高相先生の診察スタイルである。
ある日。例のごとく掻きむしってお尻から血が出るほど酷いアトピーを発症してしまったわたしは高相先生の皮膚科を受診した。
「先生、お尻がまた痒くなりました」 
「可哀想に...」
流石におしりのときはナデナデとお薬ヌリヌリは省略され、わたしのアトピーのおしりは先生の悲しそうな視線にしばし晒された。そして「君みたいなアトピーの子は化繊のパンツは痒くなるから、綿100%のおばさんパンツかTバックを履きなさい」と突然先生からパンツのアドバイスを受けたのだった。
「先生、Tバックですか?」
「そうです。患部を刺激しないから痒みを抑えられますよ」
わたしは悩んだ。
この時わたしにとってTバックは未知の代物だった。なんか履いてて痛そうだし、ボツボツの尻を露わにするのも気が引けた。だからといっておばさんパンツも履きたくない。だってわたしはヤングアダルト。もう少し張り切りたかった。
わたしは片道30分のバスの中で頭を抱えて、そして結論を出した。よし。これからはおしりのためにTバックを履こう、と。
早速家に帰ったヤングアダルトは、家族に今度からおしりのためにTバックを履く旨を伝えた。これは洗濯をしてくれる母親が、突然洗濯物からTバックが出てきても驚かないようにするための予防線であった。わたしはお尻のために致し方なくTバックを履いてるんです。決して盛りがついた訳ではありませんよと。「今日、高相先生からTバックを勧められた!」わたしは念を押して家族に訴えたのだった。そして家族は「そうかそうか」と娘のTバック宣言を受け入れてくれたのだった。
さて、そうと決まればTバックを買いにいこう。ヤングアダルト且つクールギャルであった当時の私が向かった先は、イタリア発の軟派カジュアルブランド、DIESELであった。DIESELにはデニム生地のショーツなどがあり、下着っぽくない感じがわたしのTに対する抵抗を和らげてくれた。しかし下着っぽくはないが、所詮TはT。わたしはデニム生地のTを広げて固まっていた。すると
「それ生地が柔らかくて履きやすいですよ」
と店員さんがそっと近づき声をかけてくれたのだった。背が小さくて目が大きい、金髪のショートカットがよく似合う可愛いお姉さんだった。
「わたしも同じの持ってます!」
「?!?!!」
お姉さん、こんな可愛い顔してTをお履きになられてるんですか...
「下着がパンツに響きたくないときはこれ履いてるんですよね」
と、ご丁寧にTとの付き合い方もアドバイスしてくれた。こんな可愛いお姉さんが履いてるTなんだからきっと良いTに決まっている。と軟派カジュアルギャルに後押しをされ、わたしはDIESELでファーストTバックを購入したのであった。
翌日、早速Tを履いて仕事に行った。想像通り落ち着かないし、食い込む感が否めない。正直気持ちが悪かった。あの軟派カジュアルギャルはこんなものを履いてなんとも思わないのだろうか。しかしまだわたしはデビューしたばかり。慣れもあるのだろう。私は気長にTと付き合っていくことを心に決めた。
結局その1枚しか購入をしなかったため、わたしは週に何回かTを履いてすごしていたのであった。
そんなある日。親しい友人に医者からTを勧められた話をすると「わたしTバック派なんだよね」と身近なところにT愛好家を発見することができたのだった。これは!と思い、わたしは日頃Tに対して感じている不満を彼女にぶつけてみた。すると
「フチがついてるのはパンツに響くし締め付けられる感じがあるよね。細いのは食い込んでくるし。オススメは総レースのタイプで、太めの物は食い込みにくくて履きやすいよ。Forever21にいいのがあって、780円くらいで売ってるよ」
これは朗報でした。DIESELTバック1枚買うのにForever21では6枚買える計算です。つまり、毎日Tが履けるというわけです。
フットワークの軽いわたしは早速ロサンゼルス発最新トレンドファッションブランド、Forever21に向かったのでありました。噂通りの総レースを発見。こちらの商品を780円×4枚程購入し、それからというもの毎日Tを履いたのでした。履き心地はなかなか。これならいける。アトピーを克服できるぞ!やれるぞ!わたしのやる気は一気にアップした。
こうしてわたしはTに対して前向きな気持ちになることができ、当初は暗めな色のTを選びがちだったが、Tに信頼を寄せるようになると、ポジティブな気持ちの赤!強い気持ちのヒョウ!など色彩心理学の影響をもろに受けた色や柄のチョイスをするようになった。洗濯をする母からは「あんたの趣味はどうなってるんだ」と言われた日もあったが、派手なTを選んでしまうのはポジティブな気持ちの表れ。仕方がなかった。決して盛りがMAXになった訳ではないのだ。
数年間Tバックを喜んで履いていたかいがあってか、あんなに悩まされたわたしのアトピーは鎮静化していった。しかし歳を重ねてミドルアダルトに近づいてくると尻が寒いという理由からTバックからおばさんパンツへとシフトしていったのだった。そうか筆者はベージュのパンツを履いてんだなと思われた皆さん。違います。ここで誤解を解いておきたい。オーガニック商品を好むナチュラリストの増加に伴い、おばさんパンツと呼ばれる綿100%のパンツもスタイリッシュなデザインの物も増え、昔とは訳が違うのである。決してゆったりめのベージュのパンツを私が履いてるとは思わないでいただきたい。だってなんてったってわたしは新妻。まだまだ張り切らないといけないのです。