SETAGAYAバブル時代

あっという間に30を超えるとおしりも垂れ始め、順調におばさんの道を歩んでいるわたしであるが、わたしにだってイケイケでバブリーな時代くらいあった。あれは26歳の時だった。当時彼氏は医者の息子。世田谷生まれ世田谷育ち代々医者のご家庭に生まれた彼の彼女としてはりきっていた時代。それがわたしのバブル期である。世田谷の一軒家に住んでいた彼の家にはお手伝いさんがいた。お手伝いさんもいれば、トイプードルもいるし、庭には鯉が何匹か泳いでいた。イメージ通りの金持ちライフを送る彼を見て、影響の受けやすいわたしが庶民を貫くわけがなかった。世田谷の街をどう見ても気乗りじゃないトイプードルと一緒に散歩し「お食べ」と率先して鯉にエサをやった。彼氏の家でカレーを作るために世田谷のスーパーで買い物をした時はもうセレブを気取って大変であった。値段も見ずにどんどんカゴに食材を入れる彼の姿を見てわたしも負けじと「世田谷!世田谷!世田谷!」と世田谷のリズムにあわせてどしどしカゴに物を入れていった。世田谷のスーパーから買ってきた食材を、世田谷のキッチンで調理して、世田谷の家で出来上がったカレーを、世田谷の家で食べたあの日・あの時をわたしは忘れない。そんな世田谷かぶれな26歳だった私ですからあのことを考えない訳がありませんでした。あのことそう「結婚」です。

(彼と結婚したらわたしは医者の夫人。)

妄想は続く。

(今日は旦那が教授を連れて家にやってくる日。気難しいと評判の教授らしく緊張する私。しかし教授が私の手料理を食べた瞬間「旨い!実に旨い!君の奥さんの料理は絶品だな。よし、今度の学会の件は僕に任せたまえ」こうして夫の出世に一役買ったわたしは最高の嫁として院内でも評判に....)

妄想はまだ続く。

(世田谷在住さとみこんこんさんの今日のファッションコーデです。ファッションポイント:医者の妻としてエレガンスさを大切にしつつコンサバティブになりすぎないよう意識しました。『医者の嫁になるための100の秘訣』絶賛発売中です!..... こうしてわたしなVERY妻の憧れとなった)

大変だ、めっちゃ忙しい。それにこのままのわたしじゃだめだ...そうと決まれば自分磨きである。そんな一歩も二歩も三歩も先を読んで行動するわたしが向かったのは、都内某所の和食料理教室でした。1レッスン8700円と少々お高い金額でしたが「医者の嫁になるんだからこれくらいの投資をしないと」を合言葉に1年近く通ったのでありました。はい?ABCクッキングスタジオで良かったのでは?いい質問ですね。「教授を唸らし出世コース」が狙いですから、日本料理をさっと出せるレベルにならないといけません。従って1レッスン8700円の和食料理教室に通う必要があったという訳です。えぇ、そうなんです。

お稽古は、だいたい5〜6人の生徒さんと一緒に四季折々の献立を先生の指導の元作っていった。料理経験は多少はあるが実家暮らしをしていて母に料理は任せっきりだったため、ろくすっぽ私は料理ができなかった。またわたし世代の人はほとんどおらず、だいたい35歳〜50歳の女性がメインであったため、おそらく料理教室では最年少、料理経験もほとんどない上にまだ世田谷にも住んでおりませんでしたから料理教室のヒエラルキー的に私は下の下でありました。そういう分際は料理教室で何をするかというと、もっぱら皿洗いに徹するという風潮がありました。だってやることがないのだから。

「このお魚を捌きましょう」こういのをやりたかったのだが、料理教室も立派なお魚を人数分も用意する訳にもいかず、代表2名ないし3名が魚を捌くことになっていた。この立派なお魚を捌く人選は先生のご指名ないし挙手で決まるのだが、挙手をする者などなかなかいなかった。なぜかというと万が一失敗すると分け前が減るダメージだけではなくメンバーインスタ映えを台無しにする責任がついてくるからであった。仕上がった美しいお料理を写真に撮ってSNSで公開するのも大切な活動の一つ。これはカリスマVERY妻を目指す私だけではなく他の生徒さんにとっても大事な活動であった。中には一眼レフを持ち込む気合いの入った生徒さんもいた。先生もこの辺りは心得ていたようで、上手にできそうな人を指名することが多かった。大仕事が決まった瞬間、じゃあ私はこれを。じゃあ私はこれを。と諸先輩方は当たり障りのない仕事に皆一斉に取り掛かってしまうので私はいつも仕事を失っていた。結果皿洗いという一連の流れが確立していたのである。しかし先生も8700円払って毎度皿洗いをさせるわけにもいかないので、野菜の塩もみや、ゴマをすり鉢でする仕事や、揚げ物の見張り当番などをわたしに任せてくれた。しかし時々何を思ったのか「さとみこんこんさん、この鱧を捌いてみましょう」と突然ハイレベルな仕事を私にぶつけてくる日もあった。は、ハモですか先生!と先生のご指名を受けてみんなの前で捌いたあの日の鱧。あれは忘れられない。あの日の皆の視線を忘れられないのである。大切な鱧をズタズタにしてしまった記憶があるが、もう一生鱧を捌くこともないだろうから良い経験になったと今では思う。

この料理教室では希望した日にたまたま揃った5人ないし6人で料理を作っていたので、顔なじみくらいの人はできたが1年通っても互いに自己紹介をして仲良くなるような人は現れず、顔と名前が一致する人物がほぼいなかった。しかし生徒の中で1人だけ一致する人物がおり、それは私だけではなく他の生徒も一致していたようであった。その人は「永田町の奥様」と呼ばれる人物であった。ある日隣の女性が急にラッピングされた手作りのお菓子を私に渡してきた。「え?これは...」と尋ねると隣の人が小声で「あの....永田町の奥様からです」と答えたのであった。永田町の奥様はよくお手製のお菓子を作ってきては皆に配ってくれたのだった。どうして永田町の奥様が永田町にお住まいという個人情報がバレてしまったのか知らないが、皆なぜか周知の事実であった。つまり私もお手製の菓子など持ってきて世田谷世田谷と口ずさめば「世田谷の奥様」を確立させることができるのではないだろうか。これはヒエラルキーの向上→皿洗いからの脱却であります。この時から私は永田町の奥様についていくことを決めたのでした。

このまま永田町の要素を取り入れつつ世田谷は大きく発展していく。そう誰もが信じて疑いませんでした。しかしバブルというのは泡の如く消え行く様を表す言葉。日本のバブル期は51カ月で崩壊へと向かったのですが、私のバブルはなんと6カ月で雲行きが怪しくなり9カ月で崩壊しました。一説では実質6カ月で終わっていたと分析する専門家もおります。つまり世田谷も崩壊、VERY妻は引退、『医者の嫁になるための100の秘訣』は廃刊に追い込まれ、私に残されたのは8700円の料理教室だけでした。世田谷ブランドが使えないのなら菓子を配ってもしょうがない。結局わたしは料理教室に一度もお手製の菓子を持っていくこともなく、皿洗いの川口として誰からも覚えられることなく1年間をやりきりました。しかし8700円払って懸命に通ったわけですから身についた知識や技術もあります。せっかくですから以下にまとめてみました↓

①「肉でも魚でも焼く時も煮込む時もとにかく酒をふんだんにかけろ!!」(料理酒ではなく日本酒の方が良い。さらに小さな霧吹きに日本酒を入れておくと大変重宝いたします)

 

②魚のはらわたは歯ブラシを使って洗うとよく洗える!!!


③柿は白和えにすると旨いし、きな粉をまぶしても旨い!


イカが捌けるようになった。


以上です。そしてバブル崩壊後の世田谷の奥様の現在はというと、中野の奥様として築40年のヴィンテージマンションに住んでいるそうです。