薄っぺらい脳

タイのチェンマイを夫と2人で旅行した時の話である。その日はよく晴れて汗をかきながら旧市街をウロウロ歩いていた。すると突然雲行きが怪しくなりポツポツ雨が降り始めた。夫とわたしは慌ててトゥクトゥクに飛び乗ってホテルのある方向へと戻った。今日の予定ではホテルに戻る前にニマンヘミン通り近くにあるアクセサリー屋に立ち寄る目的であったが、外は雨というより大雨。横なぶりの雨がトゥクトゥクの中にも入ってくるほどであった。しかし行きたかった店である。明日は明日の予定があるしできれば今日その店に行きたい。通り雨だろうということで、ニマンヘミン通り付近でトゥクトゥクを降りた。大雨の中を走り、一件のカフェで雨宿りをすることにした。ニマンヘミン通りはお洒落なカフェが多く、代官山や中目黒にあっても違和感のない素敵なカフェが多かった。そんな洒落たカフェでアイスコーヒーを買って屋根のついたテラス席に座った。喫煙家の夫はタバコを吸っていた。わたしは携帯を見たりボーッとしたりしながらテラスで時間を潰していた。雨は一向に止まず、激しい雨音をたてて降り続いている。すると1人の男性が店内から出てきてわたし達の席の前で立ち止まり、一緒に座っていいかとジェスチャーをした。どうやらテラス席でタバコを吸いたいらしい。わたしたちもどうぞのジェスチャーで彼を迎えた。

「Japan?」と彼はタバコに火をつけながら私たちに尋ねた。得意げに「yeah!」と笑顔で返し、あなたの出身はとぎこちなく尋ねた。すると彼は首を横に振って、携帯を打ち込み始めた。そしてくるっと向けられた画面には日本語で「英語はわかりません」の文字。

彼はこちらに画面を向けたまま、自分の携帯を私に手渡した。そこに文字を打ち込んでくれと促す。日本語でどこに住んでいるのかと打ち込むと中国語に変換された。変換された文字を見て「China 北京」と彼は笑顔で答えてくれた。

会話で意思の疎通ができない我々は、インターネットの翻訳機能を介してコミニュケーションを取った。チェンマイには旅行できているのか、1人で来たのか。彼はテラス横のガラスの壁を指差し「家族」と答える。指を差した店内には小さい女の子と若い女性が横並びで座っていた。どうやら家族旅行で来たらしい。それからいつまでチェンマイにいるのか、チェンマイは初めて来たのかなど当たり障りのないことを彼に聞いた。少し会話が弾んできたころで彼は「僕は日本が好きなんです」と我々に伝え、ニコッとした。そしてまた再び打ち込まれた画面には「僕は本当のことしか言わない」と書かれていた。思わず「私たちも中国好きだよね?」と夫に向かって日本語で返してしまった。

我々も中国好きですよ?という旨を彼に伝えると胸に手を当てて微笑んでくれた。

その後彼は「僕は日本人の気質が好きなんです。中国は50年経っても日本の気質には追いつけない。」という文字を我々に見せた。意外な言葉にありがとうと返すも、そんなこともないのでは...と少々戸惑ってしまった。「娘も東京の学校に入れたいと思っている」と彼は続けて言った。

彼が吸う細いタバコはあっという間に消費され、次から次へと新しいタバコに火がついた。そして自分の吸っている細いタバコを夫にも「どうですか?」と一本差し出して勧めていた。夫の横に置かれたタバコの箱にはまだ何本もタバコが入っているのに、それでも彼は自分のタバコを差し出し夫に分けてくれた。

「僕は中国の封建思想が良くないと思っている」再びこちらに向けられた画面にはこのように入力されていた。私はその画面をみても頷くことしか出来きず、何も返す言葉はなかった。

時々彼は酷く咳をして噎せていた。「風邪じゃないので心配しないでください。昔から気管支が弱いんです」じゃあ何本も吸うんじゃないよと思いながら、先程から彼が我々を気遣う気持ちが嬉しかった。「僕の家には2台車があるんだけど、どちらも日本製。日本の製品は素晴らしい!」など彼はその後もとにかく日本のことを褒めちぎっていた。そんななかなか戻ってこないお父さんを気にして、彼の娘が時々テラスにやって来てはお父さんの膝の上にちょこんと座っていた。目の大きな可愛いお嬢さんだった。

結局1時間経ってもやまない雨に観念した我々は、濡れながら目的の店を探すことを決意し彼に別れを告げた。彼は小さく手を振って我々を見送ってくれたのだった。

ニマンヘミン通りはたった3時間程度の間で道路に雨水が溜まって川となった。ジャバジャバと音を立てて歩きながら、ふとわたしは思った。そういえば彼に中国の好きなところを1つも言わなかったということを。

それから2日後、チェンマイからバンコクに移動した我々は中国人街を訪れていた。赤と金を基調とした派手な看板が溢れる大通りから少し脇道に入った狭い通り道を2人で歩いた。横並びで歩けるほどの間隔がなかったので、夫を先頭に一列になって細い道を進んでいった。何故か途中、狭い路地に人々が長い列を作っていた。どうして一列に並んでいるのだろうと、列に並ぶ人の横を通り過ぎた時、突然背中に冷たさと個体がぶつかる感触を感じた。驚いて思わず悲鳴をあげた。どうやら氷の入った水を背中にかけられたらしい。背中がどんどん冷たくなった。わたしは声を荒げ「もうこんな道歩かない」と言いながら夫を抜きさり足早に細い路地を抜けていったのだった。


旅から戻ってあの時何故水をかけられたのだろうかと色々考えた。日本人だから、女だから、外人だったから、この街の者じゃないから、わたしが気に食わなかったから...色々考えたけど、よくわからなかった。「よくわからないけど、路地で水をかけられた」のである。もしチェンマイのカフェで彼に会っていなかったら、水をかけられたことを根に持って「中国人街で突然水をかけられた」と人に言っていたかもしれない。確かに事実だけどそうは伝えたくないと思った。水をかけられたのは中国人街だけど中国人とは限らないのに、わたしの話を聞いた人が中国のイメージを悪くするかもしれない。わたしも彼に合わなかったら「中国人街で突然水をかけられた」といって中国人のイメージを悪くしていたかもしれない。そう思った。

2つの出来事でわかったことは、当たり前だけれど万国共通人それぞれということであった。日本人だから、中国人だから、タイ人だから、金持ちだから、男だから、女だから、ゲイだから...わたしはそういう見方で物事を見ないようにしようと心に決めた。でもそういう見方しかできない人もいることを忘れてはいけない。そんなふうに思う。

そして彼に「中国が好き」と言ったにも関わらず具体的な点を何も言えなかったことを恥じたのだった。中国に対して特に感心も持っていないのに「好きだ」と言った自分に気づいたのである。

(薄っぺらい...)

わたしは薄っぺらく浅かった。

そんな薄っぺらい自分はインターネットを頼りに封建思想について調べるのであった。




ラーメン屋

幼少の頃から漫画やアニメが好きで、「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」など子供らしいものから「らんま1/2 」や「笑ゥせぇるすまん」などちょっと大人なアニメも熱心に見ていた。漫画は父の買ってくるビックコミックオリジナルを楽しみにしており、三丁目の夕日あじさいの唄を読む一方、黄昏流星群で大人の恋愛模様を眺めていた。
そんな渋めの作品を小学校低学年の頃から見ていたせいか、なかよしやりぼんなどの小・中学生から人気の少女漫画には一切興味が湧かなかった。
特にあずきちゃんママレードボーイには嫌悪感すら感じていた。理由は意中の男を想って顔を赤らめたりするなど歯がゆいシーンが多いことやその割に簡単にキスをすることが気に入らなかったからである。あずきちゃんに至っては(あずきの野郎はまたキスをしやがって...)などと、心の中であずきちゃんを叱咤しまくって嫌っていた。小学生のわたしは秋元康の考える小学生の恋愛物語に共感できずにいた。
今思うと男女の淡い色恋話に恥ずかしさを感じてしまう多感な時期だったのかもしれないが、その一方らんま1/2では水のかかった女らんまのおっぱいが見えるシーン、喪黒福造がBAR魔の巣で乳を出したバニーガールのトランプの絵柄を見てマスターと一緒に顔を赤らめるシーンにテンションが上がっていた。あずきちゃんが顔を赤らめるのは腹が立つが喪黒福造が赤らめるのにはグッときていたのである。今でもおっぱいを出したバニーちゃんを見て赤面する喪黒福造のあのレアなシーンを見たくてネットで検索してみるものの見つけることができない。人に言っても「?」であのシーンを知っているという者になかなか出会えないでいる。だれかいません?あの不気味な笑みのまま顔を赤らめる喪黒福造を。
男女間の歯がゆい恋愛話には苛立ちすら感じるほど毛嫌いしていたのに、ちょっとエッチなワンシーンには身を乗り出して見物する幼少期。志村けんのバカ殿様で女性をトランプカードにして勝負をするおっぱい神経衰弱は衝撃的で忘れられない。自分はキスシーンよりもお色気シーンに関心があるんだなということに幼少のわたしも薄々気づいていた。そして女のはずなのにおっぱいを見て喜んでいるぞ自分は!もしかしたら男なんじゃないか!と心配に思ったことも多々あった。そんな自分にダメダメ!とエッチな感情には極力フタをするようにして必要最低限しかシモの情報を入れないようにきてきた。そのせいか、最近知人との会話の中で汁男優をしているというジョークを理解できず、汁から連想してラーメン屋かなんかだと思ってしまい「熱くて大変ですね」と答えてしまったのであった。その夜、わたしはググってたいそう驚いたのである。そもそも男優という言葉がついているのにどうしてラーメン屋だと思ったのか、と。
このように、おっぱいだなんだと話をしたいのだがいざ話を振られると上手な返しができなかったり、反応に困って急にニヤニヤして会話をしなくなったりと、相手とコミニュケーションが取れなくなってしまう。情けない話だ。
おっぱいだおしりは勿論、性について涼しい顔で表現や主張ができる女性はかっこいい。さらにそこにユーモアがあったら最高である。最近そんなエロとユーモアのある女性の表現を見つける機会が多くなったように思うのだが、ただ単純に少しずつ自分のフタを開けて周りを見出したからかもしれない。わたしもできれば涼しい顔をして軽やかに下ネタコミニュケーションを取れる人間になりたい。もしまた職業は汁男優ですというジョークを言われる機会があったらザーメン屋ですね!!と元気よく答えてみるつもりでいるがそれで大丈夫でしょうか。

致し方なく履いたTバック

ジメジメする梅雨の時期から汗が噴き出る夏の頃まで私の右腕の肘窩にはアトピーが出現する。このアトピー、もう10年近くの付き合いである。
わたしのアトピーは20歳くらいから発症し酷い時は全身にでることもあった。幸い今は落ち着いて右腕の肘窩だけで済んでいる。
1番悩んでいたアトピー発症部位はおしりであった。おしりにブツブツがあるというだけで暗い気持ちになり、また痒くても迂闊にポリポリ掻くわけにもいかず苦しい思いをした。痒さを我慢していると発狂寸前になり、堪えていたものを発散させたときは酷く掻きむしってしまいお尻から血を流す日もあった。オイオイと思われるかもしれないが、アトピーの痒さは尋常なものではない。我慢できない痒さは20代のわたしのおしりを蝕んだ。
そんな悩めるヤングアダルトだった頃、私は実家暮らしをしていた。残念ながら実家の近くに皮膚科がなかったため、バスで往復1時間かけて駅近くの皮膚科まで通っていた。また同じような遺伝子を持つ姉もやはりアトピーで悩んでおり、姉妹揃ってこの皮膚科にお世話になっていたのだった。
皮膚科の先生は50代くらいの男性の先生で、そしてサーファーだった。
「サーファーです。よろしく」と挨拶された訳ではないが、先生、さてはサーファーだなということは診察室、そして先生の風貌からガンガンに伝わってきた。
海辺とサーフボードの写真、先生と日焼けしたロン毛の外国人男性が親指を立てて「グッ!」のポーズをする写真など、診察室のあちこちに海とサーフィンを連想させる物が置いてあった。そして先生の風貌はというと、よく日焼けした肌、キムタクの全盛期みたいな髪型、Vネックの白衣からはゴツめのシルバーネックレスが覗き、そしてのりピーの元旦那に似ていた。そのためわたしと姉の間では先生のことを「高相先生」と呼んで慕っていた。
高相先生の皮膚科は大繁盛で、連日混雑していた。混雑の理由としてこの街に皮膚科が少ないことも挙げられるが、高相先生が優しい。これも理由の1つであると思う。先生はいつも穏やかでニコニコしていた。
「こことここが痒いんです」と訴えると、「可哀想に...」と先生は悲しそうに微笑み、アトピーの腕をやさしく撫でてくれた。そして先生はナデナデした後に薬を塗ってくれた。これが高相先生の診察スタイルである。
ある日。例のごとく掻きむしってお尻から血が出るほど酷いアトピーを発症してしまったわたしは高相先生の皮膚科を受診した。
「先生、お尻がまた痒くなりました」 
「可哀想に...」
流石におしりのときはナデナデとお薬ヌリヌリは省略され、わたしのアトピーのおしりは先生の悲しそうな視線にしばし晒された。そして「君みたいなアトピーの子は化繊のパンツは痒くなるから、綿100%のおばさんパンツかTバックを履きなさい」と突然先生からパンツのアドバイスを受けたのだった。
「先生、Tバックですか?」
「そうです。患部を刺激しないから痒みを抑えられますよ」
わたしは悩んだ。
この時わたしにとってTバックは未知の代物だった。なんか履いてて痛そうだし、ボツボツの尻を露わにするのも気が引けた。だからといっておばさんパンツも履きたくない。だってわたしはヤングアダルト。もう少し張り切りたかった。
わたしは片道30分のバスの中で頭を抱えて、そして結論を出した。よし。これからはおしりのためにTバックを履こう、と。
早速家に帰ったヤングアダルトは、家族に今度からおしりのためにTバックを履く旨を伝えた。これは洗濯をしてくれる母親が、突然洗濯物からTバックが出てきても驚かないようにするための予防線であった。わたしはお尻のために致し方なくTバックを履いてるんです。決して盛りがついた訳ではありませんよと。「今日、高相先生からTバックを勧められた!」わたしは念を押して家族に訴えたのだった。そして家族は「そうかそうか」と娘のTバック宣言を受け入れてくれたのだった。
さて、そうと決まればTバックを買いにいこう。ヤングアダルト且つクールギャルであった当時の私が向かった先は、イタリア発の軟派カジュアルブランド、DIESELであった。DIESELにはデニム生地のショーツなどがあり、下着っぽくない感じがわたしのTに対する抵抗を和らげてくれた。しかし下着っぽくはないが、所詮TはT。わたしはデニム生地のTを広げて固まっていた。すると
「それ生地が柔らかくて履きやすいですよ」
と店員さんがそっと近づき声をかけてくれたのだった。背が小さくて目が大きい、金髪のショートカットがよく似合う可愛いお姉さんだった。
「わたしも同じの持ってます!」
「?!?!!」
お姉さん、こんな可愛い顔してTをお履きになられてるんですか...
「下着がパンツに響きたくないときはこれ履いてるんですよね」
と、ご丁寧にTとの付き合い方もアドバイスしてくれた。こんな可愛いお姉さんが履いてるTなんだからきっと良いTに決まっている。と軟派カジュアルギャルに後押しをされ、わたしはDIESELでファーストTバックを購入したのであった。
翌日、早速Tを履いて仕事に行った。想像通り落ち着かないし、食い込む感が否めない。正直気持ちが悪かった。あの軟派カジュアルギャルはこんなものを履いてなんとも思わないのだろうか。しかしまだわたしはデビューしたばかり。慣れもあるのだろう。私は気長にTと付き合っていくことを心に決めた。
結局その1枚しか購入をしなかったため、わたしは週に何回かTを履いてすごしていたのであった。
そんなある日。親しい友人に医者からTを勧められた話をすると「わたしTバック派なんだよね」と身近なところにT愛好家を発見することができたのだった。これは!と思い、わたしは日頃Tに対して感じている不満を彼女にぶつけてみた。すると
「フチがついてるのはパンツに響くし締め付けられる感じがあるよね。細いのは食い込んでくるし。オススメは総レースのタイプで、太めの物は食い込みにくくて履きやすいよ。Forever21にいいのがあって、780円くらいで売ってるよ」
これは朗報でした。DIESELTバック1枚買うのにForever21では6枚買える計算です。つまり、毎日Tが履けるというわけです。
フットワークの軽いわたしは早速ロサンゼルス発最新トレンドファッションブランド、Forever21に向かったのでありました。噂通りの総レースを発見。こちらの商品を780円×4枚程購入し、それからというもの毎日Tを履いたのでした。履き心地はなかなか。これならいける。アトピーを克服できるぞ!やれるぞ!わたしのやる気は一気にアップした。
こうしてわたしはTに対して前向きな気持ちになることができ、当初は暗めな色のTを選びがちだったが、Tに信頼を寄せるようになると、ポジティブな気持ちの赤!強い気持ちのヒョウ!など色彩心理学の影響をもろに受けた色や柄のチョイスをするようになった。洗濯をする母からは「あんたの趣味はどうなってるんだ」と言われた日もあったが、派手なTを選んでしまうのはポジティブな気持ちの表れ。仕方がなかった。決して盛りがMAXになった訳ではないのだ。
数年間Tバックを喜んで履いていたかいがあってか、あんなに悩まされたわたしのアトピーは鎮静化していった。しかし歳を重ねてミドルアダルトに近づいてくると尻が寒いという理由からTバックからおばさんパンツへとシフトしていったのだった。そうか筆者はベージュのパンツを履いてんだなと思われた皆さん。違います。ここで誤解を解いておきたい。オーガニック商品を好むナチュラリストの増加に伴い、おばさんパンツと呼ばれる綿100%のパンツもスタイリッシュなデザインの物も増え、昔とは訳が違うのである。決してゆったりめのベージュのパンツを私が履いてるとは思わないでいただきたい。だってなんてったってわたしは新妻。まだまだ張り切らないといけないのです。

あだ名

多くの人が少なくとも1〜2個のあだ名を持っているように思う。わたしもまぁまぁの数のあだ名を持っている。

まずブログやサイトで名乗っている「さとみこんこん」これもあだ名みたいなものである。しかしこの「さとみこんこん」実際に呼ぶ際には、ほとんどの人が呼びにくいと感じる様で「さとみさん」「こんこんさん」など省略して呼ばれることがほとんどで「さとみこんこん」とフルニックネームで呼んでくれるのは私の義理の兄くらいしかいない。

ちなみに1番ベーシックなあだ名はさと、さっと。その他さとちゃん、さとみん、さとちん、さとやんなど「さと」を基準に装飾されて呼ばれることが多いのだが、小学生の頃「さと」と全く関係のないあだ名で呼ばれていたことがある。



伊達公子



伊達公子」である。これは小6のころのあだ名で、一部の男子がそう呼んでいた。解説するとわたしは伊達公子に似ていない。テニスもしたことがない。テニスも伊達公子も好きだった訳でもない。日焼けしているわけでもない。クルムもパン屋も関係ない。なのに伊達公子なのである。

何故か。

実は小6の時に他にも呼ばれていたあだ名がある。



テニスコート



わたしは「伊達公子」の前は「テニスコート」と呼ばれていた。先ほども述べた様にテニスをしていたわけではない。テニスコートが家にあったわけでもない。テニスコートが好きだったわけでもない。ないのである。  

何故か。


実は「伊達公子」「テニスコート」の前に呼ばれていたあだ名があった。


ペチャパイである。


伊達公子」「テニスコート」と呼んでいた男子はそもそもわたしのことを「ペチャパイ」と呼んでいた。ひどいもんである。

背はまぁまぁ高いがのんびり発育していた私は確かにブラジャーなんかいらないような胸だった。小学校の時には生理もこなかったし、脇毛なんて20歳まで生えてこなかった。

つまり仰せの通りペチャパイだったのである。「おい!ペチャパイ」と呼ばれても事実であるため反論もできず「ムムム...」と辛抱する毎日であった。

それがある日、ペチャパイから「おい!テニスコート」と呼び名が変わったのだ。話を聞いてみると「胸が平すぎてテニスができそうだから」とのこと。乳首にネットを張るとか訳のわからないことも言っていた。小6の男子はロクなことを考えないねまったく。と思いつつも「テニスコートw」と胸の上でテニスが地味に自分の中でウケて割と気に入っていたあだ名それが「テニスコート」であった。

そんな、なかなか良いあだ名テニスコートもだんだん大衆に飽きられてしまう。そして次についたあだ名が「伊達公子」であった。

テニスと言えば伊達公子っしょ!という小6男子の安直な考えから生まれたあだ名、それが伊達公子であった。つまり伊達公子はペチャパイ→テニスコートの過程を経て伊達公子にたどり着いたわけである。イナダ→ワラサ→ブリ   日吉丸→ 木下藤吉郎豊臣秀吉    ゼニガメカメールカメックス と同様ペチャパイ→テニスコート伊達公子も小6男子の経験値や発想の転換から呼び名が変化していったのだ。ペチャパイ女から伊達公子と呼ばれる様になったことは確かにゼニガメからカメックスくらいレベルアップしている。ペチャパイの進化系伊達公子。小6男子なかなかいいセンスじゃないの!

でも一つだけずっと不満に思っていることがある。


どうせなら伊達公子じゃなくてシャラポワが良かった。






小銭を拾ってあげたかった

ある日わたしは勤め先の歯医者で受付をしていた。待合室には70代のご婦人が2名会計待ちをしている。

先に診察が終わった婦人Aの名前を呼び受付にて会計、次回の予約を取っていた。待合室にはソファーが置いてあるのだが、受付からソファーまではだいたい4メートルくらい離れている。その時婦人Bはソファーに腰をかけていたのであった。

するとである。

ガチャーーーン

物音に驚きながら何事かと顔をあげるとソファーに腰をかけていたはずの婦人Bが床を這ってアワアワしていた。

フローリングの床一面に小銭が散らばっていた。

慌てる婦人B。きっと会計の時にスムーズに進むよう段取っていたのだろう。そして段取りに失敗した結果、財布から小銭をぶち撒き床を這う行動に繋がったようだ。

しかも何故か年寄りは小銭を大量に持っている傾向にある。このご婦人も然り。大量の小銭は四方八方に散らばった。

あぁ...ごめんなさい。と申し訳なさそうに小銭を拾う婦人B。

大変だ。すぐにでも小銭を拾ってあげたい。だけどわたしは婦人Aの受付中。

4、5枚の小銭は車輪のようにコロコロと転がり婦人Aの足元あたりで力つきて止まった。

囲いの中にいるわたしは拾ってあげられないけれど、婦人Aが拾ってくれるだろう。そう思っていたが婦人Aは全くもって無視。さっきからずっと無視。ガチャーンと小銭が散らばった時に振り向いたような気もしたが無視。別に耳が不自由なわけでもなし。

なんでこの人小銭を拾ってあげないんだろう。

婦人Bはまだ床を這っている。

婦人A、足元の銭くらい拾ってあげてくれと眼力で訴えた。

全くもって無視を貫く婦人A。

わたしはモヤモヤした。

仕方ない。わたしがさっさと受付を済ませて拾ってあげよう。

アップテンポで次回の予約をとり「お大事に」で締めくくる。

婦人Bは四つん這いからようやく立ち上がり、ソファーに再び腰をかけていたが、まだ婦人Aの足元には婦人Bの小銭が数枚散らばっている。

拾ってあげなきゃ。

受付の囲いから出て待合室へ向かう。

さぁ、小銭を拾ってあげよう!

せっせと駆けつけ待合室の扉を開けた瞬間

「コーーートーーー(怒)」

ドスのきいた声で叫ぶ婦人A。

泣く泣く開けた扉をそのまま締めて婦人Aのお預かりのコートを取りに行く。

そんな元気があるなら小銭拾ってあげてくれよ婦人A。

婦人Aに失礼しましたとコートを返しさっさと帰れと玄関のドアを開けて見送る。

やれやれとドアを閉め、ようやく落ちていた小銭を拾って婦人Bに渡すことができた。

「小銭まだ落ちてましたよ。すぐに駆けつけられなくてすみません。」

「ありがとう。こちらこそごめんなさいね。お恥ずかしい」

これで一件落着である。

落ちてしまった小銭を拾ってあげて渡す。ただそれだけのことを何故婦人Aはしなかったのだろうか。


婦人Aが小銭を拾わなかったことがショックすぎて小銭を拾わなかった婦人Aのことを昼休みの時に先輩に話した。

すると、

「落ちたお金を拾っちゃいけないって思ってる人もいるからね」

「!!?!」

拾うのが当たり前だと思っていた落ちた小銭。拾わない人はそれなりに理由があるということを先輩から学んだ。風水的によくないとかそういうことなんだろうか。その時は「そうなんですか!」と言って終わった。

後日調べてみるとタイでは落ちた小銭は不浄となされ拾わない人が多いとか、ささやかなことで運を使ってしまいもったいないので拾わないとか、そういった仏教の教えがあるらしい。

またインターネットで調べると、Yahoo!知恵袋で人が落とした小銭を拾うかどうか質問していて、盗ると思われるから拾わないというアンサーがあった。拾って貰う人がそんなこと思うかと驚き、拾う側にもよっしゃ小銭ゲットと盗っ人する人がいるのかよと二度驚き、わたしは人生がわからなくなった。


それでもわたしは盗っ人のレッテルを貼られるリスクを背負ってでも小銭が落ちていたら拾ってあげたいし、落とし主がわからない小銭も拾い、1円でも拾っている。なぜならもったいないから。

こうやってささやかな運を使っているせいで、大きな運気がわたしには流れてこないのかもしれない。

しかしそんなある日、わたしは道端で4000円を拾ったのだ。裸でポロっと落ちていた4000円。そのまま貰うのもなんだか気が引けたので交番に届けた。すると財布に入っていないお金というのは持ち主が現れにくく、結局そのお金は数ヶ月後の12月に拾い主のわたしに戻ってきた。わたしはそのお金でクリスマスに食べるチキンとケーキを買おう!とガッツポーズをした。

仏様的には馬鹿者とお叱りになるのかもしれないけど、イエス様はきっと拾ったお金で生誕を祝っても許してくれますよね、アーメン。と、拾った4000円でありがたくチキンとケーキを買ってクリスマスを祝ったのだった。

これからもわたしは自信を持って小銭を拾っていきたいと思います!





誕生日の日に

先日31歳の誕生日を迎えた。わたしは割とイベント事に気合を入れて気持ちを高ぶらせたい人間なので「自分の誕生日」これは盛り上がらずにはいられないのである。
起床は5時だ。誕生日をちょっとでも長く生きるために5時から活動をした。まずブログを書いた。フィリピンの結婚式のエピソードを書いた。下ネタの記事を誕生日の日に書いた。満足である。
自分の所属するサイトの記事も書き進める。31歳になってもせっせと記事を書く。時々いつまでわたしは書いてるんだろうという気にもなる。何か起きるのかな?って思ったり何も起きないかもなって思ったり。好きで書いてるんだぞ!って思ったり。
けれども30歳で始めたブログの活動はいろんなことが起きたように思う。2つのサイトに所属することができたし、やったぞ!という感じもする。
「今年の抱負は素人の研究社で4、ハイエナズクラブで3つの記事を書こう」という具体的な目標をたててみた。わたしの座右の銘は「自選は頑張る」である。やりたいと言って入れてもらったんだから頑張ろう、そう思う。あと自分のフロスブログも再開して、iDeCoも始めて老後に備えていくことも決めた。

誕生日を充実させるために行きつけの美容室に行って担当のあやかさんにパーマをかけてもらった。あやかさんは技術も上手なのだがコミニュケーションの取り方も私好みなので気に入っている。
なかなか茶色いわたしの髪にパーマがかかる。仕上がりはトイプードルみたいだった。
「今回もよくかかりましたね!フワフワ〜!どうですか?」
「トイプードルみたいですね」 
基本的に思ったことを言ってしまう性分で自分のことをトイプードルと言ってしまった。身長162センチ足のサイズ26センチの31歳の壮年期が自分のことをトイプードル。若い子に自分のことをトイプードル。少々後悔した。
「....トイプードル....」
あやかさんは低い声で呟いていた。けれどもその後
「もうトイプードルにしか見えません」
わたしの髪をセットしながらボソッとあやかさんが言った。やっぱりあやかさんはいいなぁとあやかさんの良さを再確認し、またあやかさんのことを指名することを誓って店から出た。

その後、結婚式の引き出物のカタログギフトの中に良い店で良い肉を食べられる券があったので、それを利用して良い肉を食べに行った。丸ビルの36階あたりで食べる肉である。きっと美味しいに決まっている。
店につくと1番窓際の席に案内された。窓掃除の苦労を想像してしまうような立派な大きな窓。そこに広がる東京の景色。晴れていたら絶景であろうそこからの眺めは、生憎の雨天でせっかくの展望は薄暗くよく見えなかった。時々何をしに来るのか36階まで鳥が遥々飛んできて止まった。そんな鳥の姿をみて「鳥だ!鳥だ!」と鳥を見て興奮をする壮年期。鳥がやってきただけで喜ぶわたしはまぁまぁいい奴だと思う。
コース料理だったので、肉料理が順々に運ばれてきた。彩が美しい前菜からはじまり、ローストビーフのサラダ、和牛の寿司などが運ばれた。和牛の寿司は口に入れた瞬間から美味かった。テレビでよく噛む前にうまい!という人がいて、何をおっしゃると思って見ていたが、まさにそれになった。口に入れた瞬間美味い。あれはきっと本心だ。
この時点で結構お腹がいっぱいで、たとえここで帰っても大満足という気分だったが、メインはこれからだった。和牛のステーキが運ばれてきたのだ。
皿にドンと乗ったステーキ。これがまたジューシーで柔らかく、噛めば噛むほど肉汁がでてお腹に溜まっていく。
一切れ食べ微笑み、二切れ食べ米はまだかと煽り、三切れ食べたあとやっぱ漬物が1番美味しいね!と米のお供にでてきた漬物に感激し、そうして和牛から目を背けていった。
歳だ....
ステーキは間違いなく美味しかったし、滅多に我が家では食べない高級和牛だから最後まで食べたかった。しかし口に運ぼうとすると体が拒否反応を示す。このまま口に入れたら全てを台無しにするぞ。わたしの消化器からやめろと叫ぶ声が聞こえる。
まさか自分が人並みに和牛を食べられなくなる日が来るとは思わなかった。これが老というやつですか。肉食!と自分で言うほど肉が好きなはずなのに。悲しいやら悔しいやら。そういえば寿司もトロとかウニとかこってりしたものが好きだったけど、今一番好きなネタはヤリイカゲソだしこういうところから歳を取るのだな。とやるせない気持ちがわたしを襲った。
そしてわたしは思ったのだ。体は限界だけど心は和牛を欲している。持ち帰ることはできないだろうか。
半分は残っている和牛。どうせ捨てられるのだから持って帰りたい。
手始めに「このステーキ、サンドイッチに挟んだら美味しいだろうに」と爽やかな声色でブツブツいってみた。反応はなかった。「残ったお肉は持ち帰ることはできないだろうか。あ、でもそういうのって衛生状の問題でできないんだってね、店の人が勧めてくれたら持って帰ることができるみたいだけど」
丸の内36階で直球を投げまくる。誰も気づかない。
最終手段に移る。
半分残っていると店の人も下げるに下げれなかったようで、そろそろと近寄り「お腹いっぱいですか?」の声がわたしにかかる。
わたしは待ってました!の勢いで、
「そうなんですぅ!すっごい美味しくて、もっと食べたいんですけど、お腹いっぱいで、食べれなくて....本当に残念で残念で食べたいんですけど」
めっちゃ食べたいアピールをした。言ってくれ、店員さん!あの言葉を!
「あら残念ですね〜」
そういうと店員さんは御膳をさっと持ち上げてその場を後にした。店員さんに連れられわたしの和牛も去っていった。お太鼓結びの店員さんの背中をわたしは目で追った。ドナドナドーナ...切なさが襲う。

このようにして今年の誕生日は過ぎ去った。今年の誕生日もなかなか思い出深いものとなったと思う。
31歳の誕生日の日に学んだことがある、それは「欲はある時に全力で使う」である。
また新しい座右の銘ができた。
やりたいと思ったことは全力でやらないとやりたくてもやれない日が来るだろう。そんなの知ってると思っていたけど、誕生日の和牛から身をもって痛感したことだ。持ち帰ることができなかった丸ビルの和牛。悔しい気持ちでお別れした和牛。しかしわたしは違う形で和牛を持ち帰ることかできた。そういうことにしておく。







フィリピンでの国際玉送り

あれはどうだったのだろうかと1年くらい疑問に思っていたことがあった。

わたしは、新郎も新婦も知り合いではないのにフィリピンまで行って結婚式に参列したことがある。
詳しく言うと、新郎はわたしの彼の高校の友人。新婦はフィリピン在住のフィリピン人。2人は新婦の母国フィリピンはセブ島で挙式を挙げることとなり、そのためわたしの彼が招待を受けたのだ。当初彼は「フィリピンだし参列しようかどうか迷っている」と後ろ向きな姿勢だったのだが、楽しそうだね行こう行こうと呼ばてもいなければ接点もないわたしが参加の意を表し、どさくさに紛れて出席させてもらったという訳である。

そのフィリピンでの結婚式では、挙式のあと夜には海辺で披露宴兼パーティーが行われたのだが、そのパーティーでのゲームが実にくだらなくて良かった。そしてそのゲームこそが1年近くあれはどうなんだろうと胸につっかえていた根源なのである。

ちなみに結婚式の様子を簡単に説明すると、奥様はフィリピン人ということで、新婦側の参列者は全員フィリピン人であった。新郎側は全員日本人。なのでフィリピン人と日本人がちょうど半々くらいの割合で出席していた。
フィリピンチームである新婦側は奥さまの親族の他友人の割合が多いため、参列者はほぼ若い女性。何故か皆ピンクのドレスを身に纏っていた。反対に日本チームは男性の参列者が多く、日本の結婚式のように皆スーツ姿であった。
パーティーでは新郎と新婦のファーストダンスというものがあり、終始いちゃいちゃしながら海辺でダンスする様子を皆で鑑賞した。
いちゃいちゃしたダンスが終わったかと思うと、海辺にセッティングされた大きなスクリーンにドローンで撮影されたセブ島がバーンと映り、その後スクリーン上に新郎と新婦が登場。再び新郎新婦がいちゃいちゃする様子を今度は新郎新婦も交えて鑑賞した。またフィリピン人の新婦がなかなかのべっぴんときたもんで、新郎としてはここぞとばかりに仲間に見せつけたかったのだろう、一切の笑いや恥じらいもなく、美人妻の腰に手を回しデレっと見つめる姿が印象的であった。緩みきった顔は溶け出すんじゃないかと思うほどである。でも本来結婚式ってこういうもんじゃないかなと思い、異国の結婚式は大変感銘を受けた。新郎新婦がご飯も食べる暇もなく出席者をもてなし気遣う日本の結婚式に疑問を感じていたからだ。おじさんの長い祝辞もいらないと思う。結婚式は当事者がイチャイチャする姿を周りはお酒でも飲んで温かい目で見守り、時々誰か歌でも歌って盛り上げればいいのではないだろうか。そんな気がした。
さて本題のゲームの話である。プレイヤーはあらかじめ決められていて、司会者に名前を呼ばれた人は席をたって皆の前でゲームに挑んだ。勝者には賞品もあった。残念ながらほぼよそ者であるわたしの名前が呼ばれることはなく、ゲームに参加することはできなかった。
第1ゲームは日本からは若者男性が5名、フィリピンからも若い女性5名が呼び出され、男女がペアになり日比ペアによるチーム戦が行われた。
ゲームの内容は、各チームにピンポン玉が1つ手渡され、日本人男性が頭の上で両手を組んで仁王立をし、フィリピン女性がペアの男性の右側のズボンの裾から先ほどのピンポン玉を入れ、股を経由して、反対側のズボンの裾からピンポン玉をだす。1番速かったチームが勝ち!という大変わかりやすいゲームであった。そしてわたしはまずここで疑問が浮かんだのだ。
(玉が股を経由するときに、触れないのだろうか。)
スーツって股上にゆとりが無いように思うのだが、大丈夫なのだろうか。20代前半であろう可愛いフィリピーナたちにそんなゲームをさせて嫌がらないだろうか。男性はみんなが見守る中通常モードを保てるのだろうか...
そんなわたしの心配をよそに司会者の合図で国際玉送りはスタート!フィリピーナ達は一斉にズボンの裾から玉を入れて手際よく玉を送った。誰一人恥じいや躊躇する様子はなし。ピンクの可愛いいドレスのことなどお構いなしに、みんな両膝を地面につけてテキパキと玉を送る。5人のフィリピーナからは気合が感じられた。そんな姿を見てわたしも「がんばれ!」と力強くエールを送る。
わたしの予想通り股上のゆとりの影響からか、折り返し地点でどのチームも玉の動きが悪くなり、苦戦している様子だった。玉の通りが悪い上に障害物もあるし、フェイクも2個くらいあるし、これは難関だ。日比のプレイヤーは皆ここが踏ん張りどころであろう。
「がんばれ!」の声援により力が入る。
勢いよく玉を通過させようとする者、ちまちまゆっくり玉を通過させる者。皆手を替え品を替え関門突破に励んでいる。
ところでわたし以外の観客はどのような表情でこの試合を眺めているのだろうか?怪訝な表情の者はいないだろうか。
目線を変えてあたりを見回すと、手を叩き腹を抱えて笑うフィリピン人の姿が目に移った。大ウケである。
(めっちゃウケてる...これはもしかしたらフィリピンの結婚式の定番のゲームなのかもしれない)
アツいぞ!フィリピンの結婚式!などと感心していると、難関を突破した後シュルシュルと上から下に玉を滑らせ見事左のズボンの裾から玉を取り出しゴールを迎えたチームが!勝者の2人はハイタッチをし、喜びを分かち合っているようだった。
しかし勝者が決まっても試合は続行し、なかなか関門を突破できない最下位のチームは否応無しに参加者全員から視線を向けられ2人のプレーは見守られた。
この視線での玉送り、あの人は大丈夫だろうか。
最後まで健闘した2人が見事ゴールを迎えた時には拍手喝采であった。
そして最後まで異国の地、フィリピンで活躍した日本人男性に「大丈夫でしたか!」と声をかけたい気もしたが、何しろわたしはほぼ部外者。心の中で彼に大丈夫でしたかを問いかけ拍手で健闘を讃えた。
このあとも日比対抗でゲームは続いた。次のゲームはフィリピンの女の子に目隠しをさせ、ペアの日本人男性が誘導して自分のヘソをあてさせるゲームであった。その後は日比で楽しむ国際伝言ゲーム。最終的にフィリピンの女の子に下品な日本語を言わせるという仕組みになっていて、たしかマイクで「鼻くそを食べたら美味しかった。」とかそんなようなことを言わせて、それをフィリピン語で通訳して女の子に「もぅ!やっだー!」といって皆で笑うという実にくだらないゲームの数々だった。しかし本当にみんな良い笑顔で、互いの言葉がわからなくても楽しい時間を共有できた素晴らしい結婚式だったように思う。フィリピンの結婚式はほぼよそ者も大満足な素敵な結婚式であった。 


そして、それから1年経ってもやっぱり気になるのは
「あの結婚式でのゲームはフィリピンでの定番なのだろうか」
「国際玉送りで女の子は障害物や違う玉を触らなかったのだろうか」 
「あのゲームで男性は反応しちゃったりしないのだろうか」
ということである。
あれはどうだったのだろう。
1人でふとした時に思い出しては忘れ、誰かに言うほどのことでもないと思って誰にも言わずにいたあの出来事。 
しかしある日の朝彼とフィリピンの結婚式の話になり、わたしは長年の疑問を彼にぶつけてみることにした。
まず彼は男性なので、反応しちゃたりしないかのかという長年の心配をぶつけてみたところ
「あのね、ゲームしていたのはみんな大人でしょ。中学生じゃないんだから大丈夫」
であった。 
小学生みたいなこと言わないでよと若干呆れた様子であった。
次に触れたかどうかについては当事者ではないのでよくわからないということで、ピンポン玉はないので小さなぬいぐるみで代用し、ゲームの再現を手伝ってもらうことにした。
ズボンがステテコでゆとりがあったこと、ぬいぐるみを使ったことなど完璧には再現できなかったが、それでもやってみた感想から「触った」ということで決着をつけることができた。
そして最後の疑問。あれはフィリピン式だったのか?である。こればっかりは2人で考えてもわからない。すると
「電話して聞いてみよう」
と現在奥さんと四国で暮らしているあの時の結婚式の新郎に、早朝に電話をかけてみることとなった。
「そこまでしなくても」とちょっと戸惑ってしまったのだが
「そんなことで1年も悩んでたんだから全部解決しなよ」
と彼は後押ししてくれた。
まず彼が電話をかけて簡単に近況報告をし、彼女が聞きたいことがあるらしい。ということで私に電話が回ってきた。
「おはようございます。朝早くからすみません。あのフィリピンの結婚式のことなんですけど、あれはフィリピン式の結婚式だったんですか?」
「そうですね、ファーストダンスはフィリピン式だよね。」
「あの時のゲーム、あれはフィリピン式なんですか?とても盛り上がっていたので日本でもやればいいのにと思いました。」
「あ、ゲームね。ゲームの内容はね。ゲームは、
俺が考えたゲームです」
「そうでしたか!いやとても楽しいゲームでした!はい、はい、はい、はい、じゃ今度四国に行った時に会いましょう!奥さんにもよろしく」

ピッ


新郎の趣味だった。