こじつけられた高木ブーのウクレレ教室

私には憧れのギターを買いに行ったのに結果ウクレレを買って帰ってきてしまった過去がある。

右も左もわからないウクレレ初心者だったので、まずYouTubeを見てドレミファソラシドを覚えた。

その訳はドレミファソラシドを覚えればなんとかウクレレで演奏できるくらいの力量が自分にはある。と思ったからだった。

しかしウクレレの持ち味は緩やかに和音をポロロンポロロンと響かせることのようにも思ったが、右も左もわからない初心者なので、コードよりもまずドレミファソラシドの方が優先順位が高いと考え練習に励んだのであった。


ドレミファソラシドを覚えたら次はリサイタルの日程を決めた。目的がないとダラダラしてしまうので、披露する場を無理やり設けたのだ。

3週間後は友達の誕生日会だな。

ちょうどいいタイミングで、高校時代の友達5人で集まる約束をしていた。そのうちの1人の誕生日も兼ねていたので、そこで1曲プレゼントをすることを決めたのだった。


ウクレレデビューの日。
久しぶりに会った旧友と、お酒を飲みながら食事と会話を楽しんだ。そして終盤にはこっそりデザートプレートを注文して「お誕生日おめでとーう!!」「きゃー!ありがとーう!」と女子がよくやるあれをやり、盛り上がったテンションでみな店を出た。

帰り道、わたしはみんなに言った。
実は、ウクレレを始めて今日はバースデーソングをプレゼントしたいと思う。 
ということを。


すると、じゃあわたしたちは歌を。
といって、心優しい友人達はなんとわたしのウクレレに合わせてハッピーバースデーの歌を歌ってくれたのだった。

単音弾きだけど、心をこめてハッピーバースデーの歌を演奏した。みんなのやさしい歌声に合わせて。誕生日の友達も嬉しそうだった。


こうして新宿歌舞伎町の路上で行われた初のウクレレリサイタルは、なかなかの盛況で幕を閉じた。
そしてその模様は後日フェイスブックで公開されたのだった。

すると、一部の物好きが飲みの席で是非演奏をということになり、ウクレレ関係の無給仕事がポツポツ入るようになっていった。

私は飲みの席にウクレレをもっていくスタイルが確立されつつあった。


そんなインディーズ時代を地道に歩んでいると、やってくるものですね。メジャーデビューのお誘いが!
それは突然のことだった。


結婚式の幹事に任命され、打ち合わせに参加した時のこと。式の出し物の話になったときに、
「あ、そういえばさとみこんこんはウクレレ弾けるよね?弾けば?」
と接点のあまりない人から声をかけられた。
流石に結婚式というメジャーな場所で演奏できるレベルではないので、いや、わたしはちょっと...と引き気味に返事をしていたら、
声が大きくテンションの高いavex 勤務の人が

「えーやってよー!いいじゃん!やっちゃいなよー!」

嗚呼業界人。と感じるような一目を置くテンションで言いはなち、わたしは何も言えなくなってしまったのであった。

(本当にウクレレを弾くことになるのだろうか。)
不安な気持ちのままその日の打ち合わせは終了した。

未だ単音弾きでポッポと弾いていたウクレレ女に訪れた突然のメジャーの話。

やっぱりちゃんと習いに行こう!と私が向かったのは
高木ブーが経営するウクレレ教室だった。
何故高木ブーウクレレ教室かというと、
ウクレレ=アロハを着た高木ブーのイメージだったからだ。

ブーさんのご指導のもと演奏すると思っていたら、ブーさんは時々ふらっと来る程度らしく、指導は別の人であった。
生ブーさんを見てみたかったので残念であった。

カフェ兼練習スペースとなっている部屋には、先生である30代くらいの男性と、見るからにフラダンスを踊ってそうな60代くらいの女性と、わたしがいた。
わたしもフラおばさんもウクレレ初心者だった。
まずはじめにコードから教わった。この日、ドレミファソラシドのド字も習わなかった。

曲によっては、3つコードを覚えれば、それだけでアロハな音楽を弾くことができると知った。
カイマナヒラという曲はウクレレ初心者の定番らしく、その曲を先生とフラダンスなおばさんとわたしで演奏した。とても平和な時間であった。
こうして1回目のレッスンは終了した。

結婚式で弾くんだからもうちょっとレベルを上げないといけないな。あと何回か通わないと!
私はそういう意気込みでいた。


次の幹事打ち合わせの日。


出し物にウクレレを弾く話がでることはなかった。

結局結婚式でウクレレを演奏するという話はあの一回きりで、実際に演奏するということはなかったのだった。

というより、誰の記憶からもウクレレの演奏の話は排除されている様子だった。

この一件から、一目置くような高いテンションの人とavexは信用しちゃいけないし、人は結構適当にものを言うし、わたしはバカであるということを悟ったのだった。

メジャーの話がなくなったと同時に、インディーズの活動も激減した。

するとわたしのウクレレは、ケースにしまいこまれ、
部屋の片隅に追いやられ、
オブジェ化していった。

可哀想なウクレレ...


そんな可哀想なウクレレにさらに悲劇が襲う。

ある日、わたしは久しぶりにウクレレを弾こうとケースをあけてみると、
ウクレレに見事な穴が空いていた。


どうして穴が空いていしまったのはわからない。
家族に穴が空いている事実を伝え、誰が開けたのか聞いたが、穴を開けた犯人は見つからず事件は謎に包まれたままとなった。
そして残念ながら思い出の詰まったウクレレを私は葬ることとなった。

私は落ち込んだ。ウクレレに申し訳ない。もう2度と楽器をもつ資格がないと悲しい気持ちになったのだった。



◆◇◆



それから数年後。

職場の全社員で夏樹陽子さんのジャズコンサートに行くという強制企画があった。

会場となったカフェは、狭くて急な階段を上がった2階であった。
コンサートは小さな会場で、アットホームな雰囲気の中歌と演奏が始まった。

開始してから15分くらいたった時のことだ。

狭くて細い階段を、大変しんどそうな表情で上がってくる人がいた。


高木ブーだった。


(ブーさん...!)


ブーさんはわたしの想像していたブーさんよりもお年を召された印象で、
わたしが想像していたよりもお太りになっておられた。よりブーさんになっていたのだ。

しかし、色々と見た目が変わったブーさんだったが1つだけイメージ通りだったことがある。

アロハシャツを着ておられ、アロハな雰囲気を醸し出しているところだった。
今も変わらずアロハな男、高木ブーなのである。

わたしは、この日のジャズコンサートで1番心に響いたのは、アロハシャツを着た高木ブーさんに会えたことだった。

あの時無駄骨だったと思われる高木ブーウクレレ教室だったが、あの日がなければ、生ブーさんを見てもこんなに心に残ることはなかったと思う。

人生はきっと無駄なことなんてないんだ。





私はそうこじつけた。




ギターを買いに行った話

これは5年くらい前の話である。


ギターが弾きたい!
クラシックギターでハウスミュージックを奏でたいなぁ!
と思って訪れた先は下倉楽器御茶ノ水店だった。

ギターを弾いた経験もなく、ギターの相談をする相手もいなかったため
右も左もわからないまま下倉楽器にやってきた。
下倉楽器を選んだ理由も特にないのだが、吹奏楽部だった中学生時代に、下倉楽器さんにはお世話になってたよなぁ。という印象があったので、下倉楽器に来てみたのであった。

しかも自分のイメージしている音色が果たしてクラシックギターなのかもよくわかっていなかった。その当時弾きたい音楽のイメージはStudio Apartmentだった。

何はともあれ、思い立ったら吉日!見切り発車上等!多動力こそ最も重要なスキル!(ってホリエモンが言ってた。)
そんな思考回路で生きてる人間なものですから、
クラシックでもアコースティックでもなんでもいいからとにかく始めてみよう!という気持ちで下倉楽器にやってきたのであった。

下倉楽器にはたくさんのギターが並んでおり、デザインや配色を見ているだけでも楽しい気分になった。
さてさてお目当てのクラシックギターを購入するために、まずは下倉楽器の店員さんに事情を説明し、相談に乗ってもらった。
店員さんは、はいはいとわたしの話を聞いて
「じゃあ、ちょっとクラシックギターを弾いてみましょうか。」
クラシックギターを持ってきてくれたのだった。
まずわたしが驚いたことは、
思っていたよりもクラシックギターは大きい。ということだった。これを持ち運びするのはなかなか根性がいるなぁと思ったのが第一印象。


そして下倉楽器のお兄さんの丁寧な指導の元、念願のクラシックギターを奏でます。
思っていたより弦を押さえる指が痛くて、このままだと指から血が出ちゃうよ!と心がポキポキと折れ始めました。

これ...わたしに弾けるかな...とやる気が7割減くらいしていた時、追い討ちをかけるように雨がざーざーと降ってきました。
これ...雨の中持って帰るの大変そうだなぁ。やる気が9.5割減に差し掛かった時にわたしは見つけたのです。
クラシックギターの8分の1くらいの大きさで、
コロンとした形のウクレレを。
え?これいいじゃん。決めたこれ買いまーす!


お兄さんは目を見開いていた。
けれど、そこはプロなのですぐに表情を戻し、女性はウクレレの方が弦も柔らかいし弾きやすいしいいかもしれませんねと言って話を合わせてくれた。
さらにお兄さんはわたしに、軽快にウクレレを弾いて見せてくれた。ポロンポロンという音色が可愛らしいウクレレ。お兄さん上手〜!
外は雨だが気分はアロハ。やる気は8割回復した!
Studio Apartmentの要素は0。当初の目的は何も達成していないが、わたしはすっかりウクレレが気に入って、雨の中我が子を抱くかのようにしてウクレレを大切に持ち帰った。


そしてyoutubeを見てウクレレを練習する日々が始まったのである。




つづく




マウンティングしほちゃん

L'Arc〜en〜Cielは小学生の頃に好きだったバンドである。小学生という身分だがそこそこ頑張ってファン業を尽くした方だと思う。


L'Arc-en-Cielはノストラダムスの大予言の日に「ark」と「ray」というアルバムを2枚同時に発売した。当時私は小学校6年生だった。

小学生の私のお小遣いは月500円くらいだったのだが、アルバムは1枚3000円くらいだった。
お小遣い年半分の値段の物を2枚も買うということは、小学生にはなかなかハードルの高いことだった。発売前にarkにするかrayにするかかなり悩み、結果ray1枚を購入することに決めたのだった。この時は売り切れを避けるために、近くのサミットというCD屋さんに予約をしにいったことも覚えている。

発売日の当日。ノストラダムスの大予言も無事に外れ、念願のアルバムrayを手に入れることができた。
この時はとても嬉しかった。

手に入れて割とすぐに、熱を出して学校を休まなければならなくなった。そんな日はここぞとばかりに布団に横になりながら、新作のアルバムrayを堪能した。収録されたお気に入りの「侵食」「花葬」を交互に聴きながら、布団の中で 熱唱したのであった。
 
覚醒されたのは失くしてた傷跡この身体が奪われていく〜ah♪

瞳開けたまま腐敗してゆく身体〜♪

熱を出しながら小学生さとみこんこんは熱唱したのであった。

 
メンバーの中ではhydeが好きで、hydeのプロマイドもたくさん買った。シールも買った。下敷きもhydeだったし、キーホルダーみたいなのも持っていたし、雑誌の切り抜きも沢山集めた。
さらに固めのクリアファイルに切り抜きを入れてお手製のhyde下敷きを作成してみたりしていた。

また「L'Arc〜en〜Cielが演奏前にビジュアル系バンドと紹介されて怒って帰ってしまった!」という話を聞けば
「アナウンサーがラルクをビジュアル系バンドと紹介しないだろうか?」と謎の使命感を感じながらアナウンサーの失態チェックをこなすようにもなった。

このように、小学生なりにL'Arc〜en〜Cielへ奉仕し、わたしのラルク愛はなかなか深いのだ!と自信を持っていた。

そんなある日、スイミングスクールでのこと。
平泳ぎのコースでしほちゃんという新しい友達ができた。しほちゃんとは気が合いよく話をした。
そこそこ仲良くなったところで、わたしはL'Arc〜en〜Cielファンです。としほちゃんに打ち明けることにしたのだ。
なかなか熱心なファンなんですよ、下敷きも2種類あって正規と自作のオリジナル下敷きを持ってるんですよ。と言いたい気持ちを抑え、控えめな感じで好きなんだというこたを伝えた。

するとしほちゃん。

「本当に?!わたしもラルクが好きなんだ!わたしね、ファンクラブに入っているんだ!」

「!?」

ファ、ファンクラブ?!

「さとみこんこんちゃんはファンクラブ入ってる?」

「いやぁ...ファンクラブは....。」

わたしは、ファンクラブというものはジャニーズにしかないと思っていた。
L'Arc〜en〜Cielのファンクラブがあることもびっくりだったけれど、彼女がL'Arc〜en〜Ciel好きでファンクラブにも入っているという事実には驚いた。

ファンクラブに入っている=ファンの格としては上

この方式は私としほちゃんの間で、言葉にせずとも一致した。

しほちゃんのマウンティングがきまった瞬間である。


それ以来しほちゃんはなんだか得意げだった。


「あのね、hydeの本名知ってる?今日はね、hydeの本名を漢字で書いてきたからこの紙あげるね。」


「これはファンクラブの中でもなかなか教えてもらえないんだけど、hydeの電話番号がわかったから、番号教えてあげるね。」

しほちゃんのマウンティングがきまった瞬間、わたしは辛いような、情けないような、なんとも言えない気持ちになって自分に自信がなくなってしまったのだが

しほちゃんから入手する情報は小学生ラルクファンのわたしにとってかなりの有力情報であった。


苗字は宝井と言うのか。ほうい?たからい?

どっちだーーー?!
(Wikipediaの情報だと、寶井と書いて〝ほうい〝と読むそうです。)

名前は秀人っていうのか。hideto →hydeto →hyde?!  
 
だからかーーー!!!!

と小学生ラルクファンはなかなか興奮したものであった。

そして、な、なんとしほちゃんのおかげで小学生ラルクファンさとみこんこんはhydeの自宅連絡先まで手に入れてしまったのだ。

これは、今でも本当に本人の連絡先なのか謎なのだが、2回ほど、教えてもらった連絡先にかけてみたことがある。
心底手が震える思いで電話をかけたのだが、2回ともコールのみだった。
かけている時にドキドキして胸が苦しくて心臓に悪い!ということと、
あまり電話をかけてはhydeに迷惑だ!という思いから2回だけお電話させていただきhyde宅へのラブコールは終了した。

ラブコールも終了したが、マウンティングしほちゃんとの友情も終止符を打つ時が来た。

わたしは平泳ぎからバタフライのコースに移動し、しほちゃんは平泳ぎのコースでスイミングスクールを引退することとなったのだった。
しほちゃんとはそれからしばらく文通をして近況を報告しあっていたのだが、いつのまにか連絡は途絶えてしまった。

マウンティングは時に人を不快にさせるが、そこを超えると大きな収穫に繋がることもあるんもんだなと、小学生の時に悟った出来事であった。

 
さて。
その後小学生ラルクファンはどうなったかというと、中学を卒業するころからラルクへの思いは低迷し、ラルクファンとは言い難いものになってしまうのだった。
しかし現在でも時々、L'Arc-en-Cielの曲をかけてはやっぱりいいじゃない。と酔いしれ、グダグダになって誰も聞いていないようなカラオケで1人でラルクを熱唱することもあったりするのだ。
侵食や花葬を。



嫌いな食べ物 麩菓子

初めて会う人や久しぶりに再会した友人と食事に行くと、必ずといってもいいほど交わされるフレーズがある。


「何か嫌いな食べ物ってある?」

このフレーズは、食事を共に楽しむ際に双方の嫌いな食べ物はなるべく避けましょうね。という暗黙の了解を共有する意味が込められていると解釈している。

わたしの嫌いな食べ物は「麩菓子」である。

一応、何故かを説明すると
まず見た目が美味しそうじゃないところが嫌いだ。
でかくて黒いところが嫌だ。全然美味しそうに見えない。
やたら甘いところも嫌いだ。
ファーストバイトが固いところも嫌いだし、噛むとパサパサしていて、さらに噛んでるとべちゃべちゃになっていく所も嫌いだ。
 
嫌いな気持ちがヒートアップしてきたのでもう少し麩菓子について語ろうと思う。

お麩は好きなんですよ。むしろ好物。麩饅頭なんて最高ですよね。甘くてモチモチしてあんことの相性も最高!
お味噌汁のお麩も良いですね!温かいお汁にプカプカ浮く姿も可愛いらしい。
知ってます?お麩って炒め物とも相性がいいんです。ネギと豚ばらとお麩を炒め煮すると美味ですよ。MOKO’Sキッチンから学びました。

そう。
お麩って美味しいし、色んな顔をもっている素晴らしい食材なのです!
だからこそ麩菓子が許せない!
こんなに美味しいお麩を一体全体どうして....

ということで、ただ味が嫌いなだけではなく美味しいお麩をどうしてこうしてくれた?という怒りも込めて嫌い!なのです。

それなのに、

「嫌いな食べ物ってある?」

と聞かれた時に

「麩菓子が嫌いです。」

と答えると。

・別にわざわざ言わなくて良い。(麩菓子は嫌いな物にカウントしなくて良い。)

・麩菓子という言葉を久しぶりに聞いた。

・麩菓子は飲み屋にでてきません。

このような反応を十中八九されます。
おいおい忖度してくれよ。ということですね。

落ち込んだ日もありましたよ。嫌いな食べ物は麩菓子ですって気持ちよく言わせておくれよと。

嫌いな食べ物はないです。と言うべきだろうか。でも自分に嘘をつくことになる。こんなに麩菓子が嫌いなのに...麩菓子が嫌いだ!という胸の内を明かすチャンスを自ら潰して良いのだろうか。
と思いつめていた日もありました。

が、

現在は

「麩菓子が嫌いです。」

と言ったときの相手の反応を観察することが楽しかったりするのです.....




拝啓どなたかご縁あって飲みに行った暁にはグッとくる返答をお待ちしております。



話さない女の子【後編】

小学校を卒業し中学生になった私。
中学生になると強制的にどこかの部活動に入らなければならなかった。
日に焼けたくないという理由から吹奏楽部に入った。なかなか美意識の高い13歳の私。この時はまさか10年後にタンニングオイルをつけて日焼けする成人になるとは夢にも思わなかった。

晴れて吹奏楽部に入ると見覚えのある女の子が。
目が大きくて色が白くて痩せた女の子。
あ、あの子だ。

わたしは彼女に話しかけた。
彼女は幼稚園の時と同様、やっぱり話さなかった。  
けれど話さない彼女が幼稚園の時と1つだけ変わっていたことがあった。

彼女は字が書けるようになっていた。
以前はどうしても話さなければならなかった時、蚊の鳴くような声でぽそっ、ぽそっと、必要な単語を発していたけれど、字がかけるようになった彼女は、手のひらに指でなぞって字を書いたり、ノートにペンでささっと字を書いたりして自分の思いを伝えるようになっていた。

中学生の彼女は全く喋らなくなっていた。

中学生の多感な時期に言葉を喋らない彼女はいじめの対象にならなかったのか。
わたしが知る限り、彼女はいじめられてはいなかった。
むしろ一部の人間からは人気者だった。わたしもその一部で彼女のことが大好きだった。

彼女は喋らないけれど、言葉の選び方がめちゃめちゃ上手だった。手のひらやノートに書く彼女の思いを読む度にいつも笑っていた。

彼女はねつみ先輩と呼ばれるようになり、わたしの他あと2人の友達の4人グループでよく遊んぶようになった。何故ねつみ先輩なのかというと、たぶんねずみに似ていたからだと思う。

部活中に学校の裏山に脱走して部活をさぼったり、帰りにみんなで団子を買ったことがばれて4人そろって停部を食らったり...幼稚園の時以上に彼女とはよく遊び楽しい日々を過ごしていた。

ある日のこと。ねつみ先輩が熱心に本を読んでいた。なんの本?と聞くと題名は忘れてしまったが、その本の内容を紙に書いて教えてくれた。

「登場人物が全員死ぬ、完全殺人の本」

中学生2年生で分厚い完全殺人の本を部活中に熱心に読むねつみ先輩。
かっ!かっこいい!
けどもう真似はしなかった。

ある日いつものメンバーが集められ、ねつみ先輩からその小説の登場人物の名前を覚えるよう伝られた。
これは後に我々の隠語になった。
伊空、弥生、樹里、あと2名の名前は忘れてしまったのだが、
その登場人物の名前を、ねつみ先輩は大嫌いな男子部員の名前にあてた。松沢は弥生ね。みたいな。
こいつらはみんな死ぬ。指でなぞって教えてくれたねつみ先輩。
とりわけホルンを吹いている樹里を憎んでいたねつみ先輩は、樹里の殺され方も教えてくれたような気がするけどわたしはあまり興味がなくてその内容は忘れてしまった。

そういった出来事からなんとなく、ねつみ先輩が話さない理由の闇は深いんだろうなと中1のわたしは察した。

結局中学生時代もねつみ先輩は、一言も喋ることはなく、1つ年上のねつみ先輩は先に卒業していくこととなった。

幼稚園の時はそのまま疎遠になってしまったのだが、
今回はどうしても最後にねつみ先輩の声が聞きたい!と友人2人とお願いをしてみることにした。

ねつみ先輩はだいぶ渋っていたけれど、直接
は話せないけど電話ならいいよ。といって承諾をしてくれた。

卒業式が終わって友達の家から電話をかけた。
なんて話そう!てドキドキしたけれど、結局
「ねつみ先輩?」
「うん。そうだよ。」
その一声でわたしの番は終了した。
他の友人も一言二言話をして、そうして彼女はそさくさと電話を切った。

そんな姿勢もやっぱりかっこいい!と思ったのだった。

彼女の声はちょっと低めでクールな声をしていた。
彼女の声が聞けて本当に嬉しかった。

その電話を最後に彼女と連絡することはなかったし、もう会うこともなかった。

人伝てに聞いた話だと、高校生になった彼女は普通に話をするようになっていたと聞いた。

幼稚園から頑なに話さなかった彼女。何故話さなかったのかはわからないけれど、胸のつかえが取れて話せるようになったのなら本当によかった。

それにしても、彼女の言葉のセンスは非常に良かった。
声を使わないかわりに、手のひらに書く文字で、いかに相手にわかりやすく面白く伝えられるかを彼女は日頃から、考えていたのかもしれない。字が書けるようになった時から中学生を卒業するまでの間ずっと。羨ましいほどに言葉のセンスがあった。




......。






明日から話すのやめます。

話さない女の子【前編】

幼稚園時代、仲良くしていた子が3人ほどいた。

そのなかの1人に彼女はいた。
彼女は喋ることをほとんどしなかった。
1つ学年が上の色白でやせた女の子。
大きな目でまばたきもろくにせずにじっと見つめる姿が印象的だった。

彼女は喋れないのではなく喋りたくないという意志のもと、ほとんど喋らなかった。どうしても話さなければならない時だけ、蚊の鳴くような声で必要な単語だけをぽそっ、ぽそっ、と発していた。
何故彼女は話さなかったのかはわからない。

わたしは、色白のやせた会話をしない彼女のことをこう思っていた。

か!かっこいい.....!

話をしない彼女の徹底ぶりに心底惚れこんだ私は、ある日私も彼女みたいにかっこいい女の子になろうと彼女の真似をして話さない女の子になった。

同じグループの友人は、そんな私のことをどう思っただろう。
前日まで普通に話していた友人が突然話さなくなってしまった。
メンバー4人中2人は話さない。グループの半分から言葉が消える。
わたしが友人の立場だったら、おまえは違うだろうよ。と怒り新党に発するところだ。

しかしわたしの友人はできた人間だった。昨日まで喋っていたのに突然喋らなくなってしまった私のことも、本家と同じように扱ってくれた。
全てお伺いをたててくれ、わたしが言葉を発さなくてもいいよう、友人2人は段取ってくれた。
そしてどうしても喋らなければいけない時、わたしも本家と同じように、蚊の鳴くような声で必要な単語だけを、ぽそっ、ぽそっと発した。
そしてわたしは思ったのだ。

話さない女の子、いいわー。ラクだわー。

わたしはすっかり味を占めてしばらく話さない女の子になった。

しかしわたしは飽きっぽかった。どのくらい話さない女の子だったかは覚えていないのだが、わりと早く切り上げ普通に会話するようになったと思う。

話さない女の子本家はというと、やっぱり話すことはなく、
1つ歳上の彼女は一足先に卒園していった。そして彼女とは疎遠になった。


つづく


緑の帽子の行方

わたしは人の影響を非常に受けやすい人間です。

顕著なのがファッション。
ようやっとここ数年かけて、自分の好きな服を認識できるようになったので、それほど服装が変化することはなくなったのですが、
それまでは服を選ぶ基準が「人」や「環境」だったため、一緒に遊ぶ女友達や意中の人の影響によって服装が変化していました。
年に数回会う友人はわたしの服装を見て、わたしのその時の心境や状況を読み取ることができるほどでした。

ある日のわたしは、SLYというギャルブランドで働く美人な友人とよく一緒にいたため、これを着ればわたしも美人になれると思ってSLYの服ばかりを着ていました。口紅はmacのピンクベージュ一択です。

20歳の頃は周りの友人がB系ばかりだったので、成人式はコーンロウに紫の着物で出席していました。肌は黒ければ黒いほど美しいとされ、LB-03という基本ゴールド×黒 もしくは ゴールド×白 の色を基調としたブランドを好んで着ていました。この時代に1番嬉しかったことは411(フォーダブ・ワンと読みます)というウェッサイな感じの殿方が出ておられる雑誌の水着スナップコーナーに出たことでしょうか。

その後金持ちと結婚するのが女の幸せ時代に突入し、黒い女より白い女を目指すようになります。
小倉優子を崇拝し、髪は内巻き!バックはイブサンローラン!財布はプラダよ!みたいな時代に突入。愛読するのは美人百花。ご馳走してくれない男って。はぁ?みたいな感じでやっておりました。この時使っていたイブサンローランはトレジャーファクトリーで二万で買い取ってもらいました。

その後迷走し、ニーハイソックスをやたら履いて絶対領域を作りたい時代が到来しますが、この時代は安土桃山時代くらい短いものでした。

こんな具合で様々な時代を歩んできた私ですが、今回割と長くやっておりました、B系時代の頃のはなしを綴りたいと思います。
その当時付き合っている彼氏はダンサーでした。
彼はアニメーションダンスを嗜んでいる方でした。
わたしはというと、控えめなB系くらいで生活しておりました。ヒョウ柄のピタッとした服がお気に入りでLB-03のゴールド×黒を基調とした天狗並みに高いヒールを好んで履いていたように記憶しております。
そんなわたしの誕生日だかクリスマスだか忘れてしまいましたが、ダンサーの彼から贈り物をいただきました。

「もっと君にはB系を目指してほしい。」
「こういうのを似合う子になってほしい。」

そう言ってもらったプレゼントは、
緑色のカンゴールのハットでした。
B系を目指しているわたしにとって、とても嬉しいプレゼントでした。

しかしB系を目指しているわたしが、もっと欲しかったのは黒のカンゴールのキャスケットでした。
緑のカンゴールのハットがくるのは正直予想外でした。

411の水着スナップに出たくらいじゃ緑のハットは使いこなせません。
でもせっかくB系でダンサーのかっこいい彼氏からもらったプレゼントでしたので、わたしも期待に応えたかった。
髪に細かいパーマをあててみたり、友人に相談したり、できる限り努力はしたものの、なかなか緑のハットの答えはでませんでした。

この騒動、ついには家族会議を開くまでに発展しました。
わたしは追い詰められていました。緑色のハットに。
細かいパーマまであてて悩む娘。
家族もなんとかしてやりたい、そんな思いだったと思うのですが、
緑色のカンゴールをどう被ったらいいか誰にもわかりませんでした。


家族会議の結果お父さんがかぶる。という結論で決着がつきました。
植木屋の父が作業帽として緑の帽子をかぶるのが1番適した使い道なのでは。というのが我が家の答えでした。
わたしも悩みすぎて判断能力が落ちていたのでしょう、それがいいと言って納得したのでした。
結局緑色のカンゴールのハットをわたしも父も一度も被ることはなく、緑の帽子が似合う女
になれなかったからかどうかは知りませんがその彼とは別れてしまいました。現在、その彼も緑の帽子の行方もわたしは知りません。

ちなみに今わたしがよく被っている帽子は、紺色のアヒルの絵の描いてあるキャップ帽です。