突然の来客

生まれてから小学校5年生くらいまで社宅のアパートに住んでいた。「けやき荘」と「銀杏荘」という名前のアパートが2棟並んでいて、我が家は「けやき荘」の住人であった。古くてボロいアパートの上、名前がダサすぎるのも嫌だったけれど、アパートには子供も多かったし、住んでいる住人は陽気な人が多く退屈はしなかった。

けやき荘の住人「堀池さん」はとにかく面倒見がよく声が大きかった。堀池さんは2階の住人で、板前の旦那さんと私より4つ年上の「なり君」という息子と3人で暮らしていた。新鮮な魚が手に入れば、綺麗に捌いて刺身にして我が家に持ってきてくれたり、運転のできなかった母を誘っては車に乗せてちょっと距離のある激安スーパーに連れて行ってくれたりしていた。暇な時は「いるー?」と大声で外から声をかけ、一階のうちの窓をガラっと開けて勝手に家の中を覗いてきたりと、少々大胆な行動をとる人だった。見た目もショートカットでずっしりしていたので私も姉も妹も「堀池さんは男なのか、女なのか」と小さい頭をそれぞれ悩ませていた。しかしその答えは堀池さんとお風呂に入った時に解決したのであった。面倒見の良かった堀池さんの家で何故か堀池さんと一緒にお風呂に入った時、母のよりも大きかった堀池さんのお胸を見て「堀池さんは女」と判断したのであった。フェロモンっていうのは誰もが持っているのかわからないけれど、堀池さんからはたぶん「男気」が漂っていたのだと思う。だから小さかった我が家の三姉妹は男か女かで困惑してたのだと思う。

そんな男前な堀池おばさんのある日の話である。午後の昼下がりに堀池さんがけやき荘のお家で寛いでいると、突然玄関のドアがバタンと開いて人が入ってきたのであった。

「助けてくれ!!!」とドカドカ部屋に上がってきたのはなんと頭から血を流した男だった。さすがに堀池さんも驚いたのか、慌ててうちの家にやってきた。どうやらヤクザかチンピラに追われて逃走中の人だったらしく、たまたま堀池さんの家に助けを求めて上がり込んできたようだった。その時の堀池さんはパニックというよりは「ねぇ、どうしよう〜」と面白い話をしにうちにやってきたような感じだった。結局その追われた男を毛布でぐるぐるに包んで車に乗せて、堀池さんがどこかに逃がしてあげたのだった。ぐるぐる巻きの男を後部座席にのせた後、運転席でハンドルを握りしめた堀池さんが颯爽と車を走らせていく様子は今でも覚えている。堀池さんかっこいいなと小さい頃のわたしは思ったのであった。

そんな昔の出来事を思い出したのには理由があった。先日うちの家の前で知らないサラリーマンがスーツ姿で酔っ払って寝ていたのだ。ちなみにうちはマンションの4階で、エレベーターがないので階段で上がってこないと辿りつけないのだが、酔っ払いは朦朧とする意識で4階まで上がり、そして何故かうちの家の前で力尽き寝ていたのであった。「いってきます」と出勤する夫が玄関を出たところで寝転がる酔っ払いと遭遇。夫は寝ている酔っ払いを起こして「ここで寝るのはちょっと迷惑です」とひとこと言うと、酔っ払いは「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりじゃなかったんです。」と言って起き上がり、ヨタヨタ階段を降りてタクシーをつかまえて帰っていたのであった。なんでうち?と不思議であったが、基本的に酒のみに寛大な我が家である。もしかしたら玄関のドアをくぐり抜け「酒飲み万歳」の心持ちが漂っていたのかもしれない。はたまた酒臭いのか...

あの時堀池さんの家を訪ねてきた逃走者は、もしかしたら堀池さんの男気をどこかで感じとって部屋に上がり込んできたのであろうか。なんでわざわざ2階の堀池さんの家だったのかずっと不思議に思っていた。あの後上手く逃げきったのであろうか。そんな昔のことを思い出しながら、あぁ、あの酔っ払いにコップ1杯の水でも飲ませてあげればよかった。なんて思ったりしたのであった。