突然の来客

生まれてから小学校5年生くらいまで社宅のアパートに住んでいた。「けやき荘」と「銀杏荘」という名前のアパートが2棟並んでいて、我が家は「けやき荘」の住人であった。古くてボロいアパートの上、名前がダサすぎるのも嫌だったけれど、アパートには子供も多かったし、住んでいる住人は陽気な人が多く退屈はしなかった。

けやき荘の住人「堀池さん」はとにかく面倒見がよく声が大きかった。堀池さんは2階の住人で、板前の旦那さんと私より4つ年上の「なり君」という息子と3人で暮らしていた。新鮮な魚が手に入れば、綺麗に捌いて刺身にして我が家に持ってきてくれたり、運転のできなかった母を誘っては車に乗せてちょっと距離のある激安スーパーに連れて行ってくれたりしていた。暇な時は「いるー?」と大声で外から声をかけ、一階のうちの窓をガラっと開けて勝手に家の中を覗いてきたりと、少々大胆な行動をとる人だった。見た目もショートカットでずっしりしていたので私も姉も妹も「堀池さんは男なのか、女なのか」と小さい頭をそれぞれ悩ませていた。しかしその答えは堀池さんとお風呂に入った時に解決したのであった。面倒見の良かった堀池さんの家で何故か堀池さんと一緒にお風呂に入った時、母のよりも大きかった堀池さんのお胸を見て「堀池さんは女」と判断したのであった。フェロモンっていうのは誰もが持っているのかわからないけれど、堀池さんからはたぶん「男気」が漂っていたのだと思う。だから小さかった我が家の三姉妹は男か女かで困惑してたのだと思う。

そんな男前な堀池おばさんのある日の話である。午後の昼下がりに堀池さんがけやき荘のお家で寛いでいると、突然玄関のドアがバタンと開いて人が入ってきたのであった。

「助けてくれ!!!」とドカドカ部屋に上がってきたのはなんと頭から血を流した男だった。さすがに堀池さんも驚いたのか、慌ててうちの家にやってきた。どうやらヤクザかチンピラに追われて逃走中の人だったらしく、たまたま堀池さんの家に助けを求めて上がり込んできたようだった。その時の堀池さんはパニックというよりは「ねぇ、どうしよう〜」と面白い話をしにうちにやってきたような感じだった。結局その追われた男を毛布でぐるぐるに包んで車に乗せて、堀池さんがどこかに逃がしてあげたのだった。ぐるぐる巻きの男を後部座席にのせた後、運転席でハンドルを握りしめた堀池さんが颯爽と車を走らせていく様子は今でも覚えている。堀池さんかっこいいなと小さい頃のわたしは思ったのであった。

そんな昔の出来事を思い出したのには理由があった。先日うちの家の前で知らないサラリーマンがスーツ姿で酔っ払って寝ていたのだ。ちなみにうちはマンションの4階で、エレベーターがないので階段で上がってこないと辿りつけないのだが、酔っ払いは朦朧とする意識で4階まで上がり、そして何故かうちの家の前で力尽き寝ていたのであった。「いってきます」と出勤する夫が玄関を出たところで寝転がる酔っ払いと遭遇。夫は寝ている酔っ払いを起こして「ここで寝るのはちょっと迷惑です」とひとこと言うと、酔っ払いは「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりじゃなかったんです。」と言って起き上がり、ヨタヨタ階段を降りてタクシーをつかまえて帰っていたのであった。なんでうち?と不思議であったが、基本的に酒のみに寛大な我が家である。もしかしたら玄関のドアをくぐり抜け「酒飲み万歳」の心持ちが漂っていたのかもしれない。はたまた酒臭いのか...

あの時堀池さんの家を訪ねてきた逃走者は、もしかしたら堀池さんの男気をどこかで感じとって部屋に上がり込んできたのであろうか。なんでわざわざ2階の堀池さんの家だったのかずっと不思議に思っていた。あの後上手く逃げきったのであろうか。そんな昔のことを思い出しながら、あぁ、あの酔っ払いにコップ1杯の水でも飲ませてあげればよかった。なんて思ったりしたのであった。

 

 

SETAGAYAバブル時代

あっという間に30を超えるとおしりも垂れ始め、順調におばさんの道を歩んでいるわたしであるが、わたしにだってイケイケでバブリーな時代くらいあった。あれは26歳の時だった。当時彼氏は医者の息子。世田谷生まれ世田谷育ち代々医者のご家庭に生まれた彼の彼女としてはりきっていた時代。それがわたしのバブル期である。世田谷の一軒家に住んでいた彼の家にはお手伝いさんがいた。お手伝いさんもいれば、トイプードルもいるし、庭には鯉が何匹か泳いでいた。イメージ通りの金持ちライフを送る彼を見て、影響の受けやすいわたしが庶民を貫くわけがなかった。世田谷の街をどう見ても気乗りじゃないトイプードルと一緒に散歩し「お食べ」と率先して鯉にエサをやった。彼氏の家でカレーを作るために世田谷のスーパーで買い物をした時はもうセレブを気取って大変であった。値段も見ずにどんどんカゴに食材を入れる彼の姿を見てわたしも負けじと「世田谷!世田谷!世田谷!」と世田谷のリズムにあわせてどしどしカゴに物を入れていった。世田谷のスーパーから買ってきた食材を、世田谷のキッチンで調理して、世田谷の家で出来上がったカレーを、世田谷の家で食べたあの日・あの時をわたしは忘れない。そんな世田谷かぶれな26歳だった私ですからあのことを考えない訳がありませんでした。あのことそう「結婚」です。

(彼と結婚したらわたしは医者の夫人。)

妄想は続く。

(今日は旦那が教授を連れて家にやってくる日。気難しいと評判の教授らしく緊張する私。しかし教授が私の手料理を食べた瞬間「旨い!実に旨い!君の奥さんの料理は絶品だな。よし、今度の学会の件は僕に任せたまえ」こうして夫の出世に一役買ったわたしは最高の嫁として院内でも評判に....)

妄想はまだ続く。

(世田谷在住さとみこんこんさんの今日のファッションコーデです。ファッションポイント:医者の妻としてエレガンスさを大切にしつつコンサバティブになりすぎないよう意識しました。『医者の嫁になるための100の秘訣』絶賛発売中です!..... こうしてわたしなVERY妻の憧れとなった)

大変だ、めっちゃ忙しい。それにこのままのわたしじゃだめだ...そうと決まれば自分磨きである。そんな一歩も二歩も三歩も先を読んで行動するわたしが向かったのは、都内某所の和食料理教室でした。1レッスン8700円と少々お高い金額でしたが「医者の嫁になるんだからこれくらいの投資をしないと」を合言葉に1年近く通ったのでありました。はい?ABCクッキングスタジオで良かったのでは?いい質問ですね。「教授を唸らし出世コース」が狙いですから、日本料理をさっと出せるレベルにならないといけません。従って1レッスン8700円の和食料理教室に通う必要があったという訳です。えぇ、そうなんです。

お稽古は、だいたい5〜6人の生徒さんと一緒に四季折々の献立を先生の指導の元作っていった。料理経験は多少はあるが実家暮らしをしていて母に料理は任せっきりだったため、ろくすっぽ私は料理ができなかった。またわたし世代の人はほとんどおらず、だいたい35歳〜50歳の女性がメインであったため、おそらく料理教室では最年少、料理経験もほとんどない上にまだ世田谷にも住んでおりませんでしたから料理教室のヒエラルキー的に私は下の下でありました。そういう分際は料理教室で何をするかというと、もっぱら皿洗いに徹するという風潮がありました。だってやることがないのだから。

「このお魚を捌きましょう」こういのをやりたかったのだが、料理教室も立派なお魚を人数分も用意する訳にもいかず、代表2名ないし3名が魚を捌くことになっていた。この立派なお魚を捌く人選は先生のご指名ないし挙手で決まるのだが、挙手をする者などなかなかいなかった。なぜかというと万が一失敗すると分け前が減るダメージだけではなくメンバーインスタ映えを台無しにする責任がついてくるからであった。仕上がった美しいお料理を写真に撮ってSNSで公開するのも大切な活動の一つ。これはカリスマVERY妻を目指す私だけではなく他の生徒さんにとっても大事な活動であった。中には一眼レフを持ち込む気合いの入った生徒さんもいた。先生もこの辺りは心得ていたようで、上手にできそうな人を指名することが多かった。大仕事が決まった瞬間、じゃあ私はこれを。じゃあ私はこれを。と諸先輩方は当たり障りのない仕事に皆一斉に取り掛かってしまうので私はいつも仕事を失っていた。結果皿洗いという一連の流れが確立していたのである。しかし先生も8700円払って毎度皿洗いをさせるわけにもいかないので、野菜の塩もみや、ゴマをすり鉢でする仕事や、揚げ物の見張り当番などをわたしに任せてくれた。しかし時々何を思ったのか「さとみこんこんさん、この鱧を捌いてみましょう」と突然ハイレベルな仕事を私にぶつけてくる日もあった。は、ハモですか先生!と先生のご指名を受けてみんなの前で捌いたあの日の鱧。あれは忘れられない。あの日の皆の視線を忘れられないのである。大切な鱧をズタズタにしてしまった記憶があるが、もう一生鱧を捌くこともないだろうから良い経験になったと今では思う。

この料理教室では希望した日にたまたま揃った5人ないし6人で料理を作っていたので、顔なじみくらいの人はできたが1年通っても互いに自己紹介をして仲良くなるような人は現れず、顔と名前が一致する人物がほぼいなかった。しかし生徒の中で1人だけ一致する人物がおり、それは私だけではなく他の生徒も一致していたようであった。その人は「永田町の奥様」と呼ばれる人物であった。ある日隣の女性が急にラッピングされた手作りのお菓子を私に渡してきた。「え?これは...」と尋ねると隣の人が小声で「あの....永田町の奥様からです」と答えたのであった。永田町の奥様はよくお手製のお菓子を作ってきては皆に配ってくれたのだった。どうして永田町の奥様が永田町にお住まいという個人情報がバレてしまったのか知らないが、皆なぜか周知の事実であった。つまり私もお手製の菓子など持ってきて世田谷世田谷と口ずさめば「世田谷の奥様」を確立させることができるのではないだろうか。これはヒエラルキーの向上→皿洗いからの脱却であります。この時から私は永田町の奥様についていくことを決めたのでした。

このまま永田町の要素を取り入れつつ世田谷は大きく発展していく。そう誰もが信じて疑いませんでした。しかしバブルというのは泡の如く消え行く様を表す言葉。日本のバブル期は51カ月で崩壊へと向かったのですが、私のバブルはなんと6カ月で雲行きが怪しくなり9カ月で崩壊しました。一説では実質6カ月で終わっていたと分析する専門家もおります。つまり世田谷も崩壊、VERY妻は引退、『医者の嫁になるための100の秘訣』は廃刊に追い込まれ、私に残されたのは8700円の料理教室だけでした。世田谷ブランドが使えないのなら菓子を配ってもしょうがない。結局わたしは料理教室に一度もお手製の菓子を持っていくこともなく、皿洗いの川口として誰からも覚えられることなく1年間をやりきりました。しかし8700円払って懸命に通ったわけですから身についた知識や技術もあります。せっかくですから以下にまとめてみました↓

①「肉でも魚でも焼く時も煮込む時もとにかく酒をふんだんにかけろ!!」(料理酒ではなく日本酒の方が良い。さらに小さな霧吹きに日本酒を入れておくと大変重宝いたします)

 

②魚のはらわたは歯ブラシを使って洗うとよく洗える!!!


③柿は白和えにすると旨いし、きな粉をまぶしても旨い!


イカが捌けるようになった。


以上です。そしてバブル崩壊後の世田谷の奥様の現在はというと、中野の奥様として築40年のヴィンテージマンションに住んでいるそうです。


薄っぺらい脳

タイのチェンマイを夫と2人で旅行した時の話である。その日はよく晴れて汗をかきながら旧市街をウロウロ歩いていた。すると突然雲行きが怪しくなりポツポツ雨が降り始めた。夫とわたしは慌ててトゥクトゥクに飛び乗ってホテルのある方向へと戻った。今日の予定ではホテルに戻る前にニマンヘミン通り近くにあるアクセサリー屋に立ち寄る目的であったが、外は雨というより大雨。横なぶりの雨がトゥクトゥクの中にも入ってくるほどであった。しかし行きたかった店である。明日は明日の予定があるしできれば今日その店に行きたい。通り雨だろうということで、ニマンヘミン通り付近でトゥクトゥクを降りた。大雨の中を走り、一件のカフェで雨宿りをすることにした。ニマンヘミン通りはお洒落なカフェが多く、代官山や中目黒にあっても違和感のない素敵なカフェが多かった。そんな洒落たカフェでアイスコーヒーを買って屋根のついたテラス席に座った。喫煙家の夫はタバコを吸っていた。わたしは携帯を見たりボーッとしたりしながらテラスで時間を潰していた。雨は一向に止まず、激しい雨音をたてて降り続いている。すると1人の男性が店内から出てきてわたし達の席の前で立ち止まり、一緒に座っていいかとジェスチャーをした。どうやらテラス席でタバコを吸いたいらしい。わたしたちもどうぞのジェスチャーで彼を迎えた。

「Japan?」と彼はタバコに火をつけながら私たちに尋ねた。得意げに「yeah!」と笑顔で返し、あなたの出身はとぎこちなく尋ねた。すると彼は首を横に振って、携帯を打ち込み始めた。そしてくるっと向けられた画面には日本語で「英語はわかりません」の文字。

彼はこちらに画面を向けたまま、自分の携帯を私に手渡した。そこに文字を打ち込んでくれと促す。日本語でどこに住んでいるのかと打ち込むと中国語に変換された。変換された文字を見て「China 北京」と彼は笑顔で答えてくれた。

会話で意思の疎通ができない我々は、インターネットの翻訳機能を介してコミニュケーションを取った。チェンマイには旅行できているのか、1人で来たのか。彼はテラス横のガラスの壁を指差し「家族」と答える。指を差した店内には小さい女の子と若い女性が横並びで座っていた。どうやら家族旅行で来たらしい。それからいつまでチェンマイにいるのか、チェンマイは初めて来たのかなど当たり障りのないことを彼に聞いた。少し会話が弾んできたころで彼は「僕は日本が好きなんです」と我々に伝え、ニコッとした。そしてまた再び打ち込まれた画面には「僕は本当のことしか言わない」と書かれていた。思わず「私たちも中国好きだよね?」と夫に向かって日本語で返してしまった。

我々も中国好きですよ?という旨を彼に伝えると胸に手を当てて微笑んでくれた。

その後彼は「僕は日本人の気質が好きなんです。中国は50年経っても日本の気質には追いつけない。」という文字を我々に見せた。意外な言葉にありがとうと返すも、そんなこともないのでは...と少々戸惑ってしまった。「娘も東京の学校に入れたいと思っている」と彼は続けて言った。

彼が吸う細いタバコはあっという間に消費され、次から次へと新しいタバコに火がついた。そして自分の吸っている細いタバコを夫にも「どうですか?」と一本差し出して勧めていた。夫の横に置かれたタバコの箱にはまだ何本もタバコが入っているのに、それでも彼は自分のタバコを差し出し夫に分けてくれた。

「僕は中国の封建思想が良くないと思っている」再びこちらに向けられた画面にはこのように入力されていた。私はその画面をみても頷くことしか出来きず、何も返す言葉はなかった。

時々彼は酷く咳をして噎せていた。「風邪じゃないので心配しないでください。昔から気管支が弱いんです」じゃあ何本も吸うんじゃないよと思いながら、先程から彼が我々を気遣う気持ちが嬉しかった。「僕の家には2台車があるんだけど、どちらも日本製。日本の製品は素晴らしい!」など彼はその後もとにかく日本のことを褒めちぎっていた。そんななかなか戻ってこないお父さんを気にして、彼の娘が時々テラスにやって来てはお父さんの膝の上にちょこんと座っていた。目の大きな可愛いお嬢さんだった。

結局1時間経ってもやまない雨に観念した我々は、濡れながら目的の店を探すことを決意し彼に別れを告げた。彼は小さく手を振って我々を見送ってくれたのだった。

ニマンヘミン通りはたった3時間程度の間で道路に雨水が溜まって川となった。ジャバジャバと音を立てて歩きながら、ふとわたしは思った。そういえば彼に中国の好きなところを1つも言わなかったということを。

それから2日後、チェンマイからバンコクに移動した我々は中国人街を訪れていた。赤と金を基調とした派手な看板が溢れる大通りから少し脇道に入った狭い通り道を2人で歩いた。横並びで歩けるほどの間隔がなかったので、夫を先頭に一列になって細い道を進んでいった。何故か途中、狭い路地に人々が長い列を作っていた。どうして一列に並んでいるのだろうと、列に並ぶ人の横を通り過ぎた時、突然背中に冷たさと個体がぶつかる感触を感じた。驚いて思わず悲鳴をあげた。どうやら氷の入った水を背中にかけられたらしい。背中がどんどん冷たくなった。わたしは声を荒げ「もうこんな道歩かない」と言いながら夫を抜きさり足早に細い路地を抜けていったのだった。


旅から戻ってあの時何故水をかけられたのだろうかと色々考えた。日本人だから、女だから、外人だったから、この街の者じゃないから、わたしが気に食わなかったから...色々考えたけど、よくわからなかった。「よくわからないけど、路地で水をかけられた」のである。もしチェンマイのカフェで彼に会っていなかったら、水をかけられたことを根に持って「中国人街で突然水をかけられた」と人に言っていたかもしれない。確かに事実だけどそうは伝えたくないと思った。水をかけられたのは中国人街だけど中国人とは限らないのに、わたしの話を聞いた人が中国のイメージを悪くするかもしれない。わたしも彼に合わなかったら「中国人街で突然水をかけられた」といって中国人のイメージを悪くしていたかもしれない。そう思った。

2つの出来事でわかったことは、当たり前だけれど万国共通人それぞれということであった。日本人だから、中国人だから、タイ人だから、金持ちだから、男だから、女だから、ゲイだから...わたしはそういう見方で物事を見ないようにしようと心に決めた。でもそういう見方しかできない人もいることを忘れてはいけない。そんなふうに思う。

そして彼に「中国が好き」と言ったにも関わらず具体的な点を何も言えなかったことを恥じたのだった。中国に対して特に感心も持っていないのに「好きだ」と言った自分に気づいたのである。

(薄っぺらい...)

わたしは薄っぺらく浅かった。

そんな薄っぺらい自分はインターネットを頼りに封建思想について調べるのであった。




ラーメン屋

幼少の頃から漫画やアニメが好きで、「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」など子供らしいものから「らんま1/2 」や「笑ゥせぇるすまん」などちょっと大人なアニメも熱心に見ていた。漫画は父の買ってくるビックコミックオリジナルを楽しみにしており、三丁目の夕日あじさいの唄を読む一方、黄昏流星群で大人の恋愛模様を眺めていた。
そんな渋めの作品を小学校低学年の頃から見ていたせいか、なかよしやりぼんなどの小・中学生から人気の少女漫画には一切興味が湧かなかった。
特にあずきちゃんママレードボーイには嫌悪感すら感じていた。理由は意中の男を想って顔を赤らめたりするなど歯がゆいシーンが多いことやその割に簡単にキスをすることが気に入らなかったからである。あずきちゃんに至っては(あずきの野郎はまたキスをしやがって...)などと、心の中であずきちゃんを叱咤しまくって嫌っていた。小学生のわたしは秋元康の考える小学生の恋愛物語に共感できずにいた。
今思うと男女の淡い色恋話に恥ずかしさを感じてしまう多感な時期だったのかもしれないが、その一方らんま1/2では水のかかった女らんまのおっぱいが見えるシーン、喪黒福造がBAR魔の巣で乳を出したバニーガールのトランプの絵柄を見てマスターと一緒に顔を赤らめるシーンにテンションが上がっていた。あずきちゃんが顔を赤らめるのは腹が立つが喪黒福造が赤らめるのにはグッときていたのである。今でもおっぱいを出したバニーちゃんを見て赤面する喪黒福造のあのレアなシーンを見たくてネットで検索してみるものの見つけることができない。人に言っても「?」であのシーンを知っているという者になかなか出会えないでいる。だれかいません?あの不気味な笑みのまま顔を赤らめる喪黒福造を。
男女間の歯がゆい恋愛話には苛立ちすら感じるほど毛嫌いしていたのに、ちょっとエッチなワンシーンには身を乗り出して見物する幼少期。志村けんのバカ殿様で女性をトランプカードにして勝負をするおっぱい神経衰弱は衝撃的で忘れられない。自分はキスシーンよりもお色気シーンに関心があるんだなということに幼少のわたしも薄々気づいていた。そして女のはずなのにおっぱいを見て喜んでいるぞ自分は!もしかしたら男なんじゃないか!と心配に思ったことも多々あった。そんな自分にダメダメ!とエッチな感情には極力フタをするようにして必要最低限しかシモの情報を入れないようにきてきた。そのせいか、最近知人との会話の中で汁男優をしているというジョークを理解できず、汁から連想してラーメン屋かなんかだと思ってしまい「熱くて大変ですね」と答えてしまったのであった。その夜、わたしはググってたいそう驚いたのである。そもそも男優という言葉がついているのにどうしてラーメン屋だと思ったのか、と。
このように、おっぱいだなんだと話をしたいのだがいざ話を振られると上手な返しができなかったり、反応に困って急にニヤニヤして会話をしなくなったりと、相手とコミニュケーションが取れなくなってしまう。情けない話だ。
おっぱいだおしりは勿論、性について涼しい顔で表現や主張ができる女性はかっこいい。さらにそこにユーモアがあったら最高である。最近そんなエロとユーモアのある女性の表現を見つける機会が多くなったように思うのだが、ただ単純に少しずつ自分のフタを開けて周りを見出したからかもしれない。わたしもできれば涼しい顔をして軽やかに下ネタコミニュケーションを取れる人間になりたい。もしまた職業は汁男優ですというジョークを言われる機会があったらザーメン屋ですね!!と元気よく答えてみるつもりでいるがそれで大丈夫でしょうか。

致し方なく履いたTバック

ジメジメする梅雨の時期から汗が噴き出る夏の頃まで私の右腕の肘窩にはアトピーが出現する。このアトピー、もう10年近くの付き合いである。
わたしのアトピーは20歳くらいから発症し酷い時は全身にでることもあった。幸い今は落ち着いて右腕の肘窩だけで済んでいる。
1番悩んでいたアトピー発症部位はおしりであった。おしりにブツブツがあるというだけで暗い気持ちになり、また痒くても迂闊にポリポリ掻くわけにもいかず苦しい思いをした。痒さを我慢していると発狂寸前になり、堪えていたものを発散させたときは酷く掻きむしってしまいお尻から血を流す日もあった。オイオイと思われるかもしれないが、アトピーの痒さは尋常なものではない。我慢できない痒さは20代のわたしのおしりを蝕んだ。
そんな悩めるヤングアダルトだった頃、私は実家暮らしをしていた。残念ながら実家の近くに皮膚科がなかったため、バスで往復1時間かけて駅近くの皮膚科まで通っていた。また同じような遺伝子を持つ姉もやはりアトピーで悩んでおり、姉妹揃ってこの皮膚科にお世話になっていたのだった。
皮膚科の先生は50代くらいの男性の先生で、そしてサーファーだった。
「サーファーです。よろしく」と挨拶された訳ではないが、先生、さてはサーファーだなということは診察室、そして先生の風貌からガンガンに伝わってきた。
海辺とサーフボードの写真、先生と日焼けしたロン毛の外国人男性が親指を立てて「グッ!」のポーズをする写真など、診察室のあちこちに海とサーフィンを連想させる物が置いてあった。そして先生の風貌はというと、よく日焼けした肌、キムタクの全盛期みたいな髪型、Vネックの白衣からはゴツめのシルバーネックレスが覗き、そしてのりピーの元旦那に似ていた。そのためわたしと姉の間では先生のことを「高相先生」と呼んで慕っていた。
高相先生の皮膚科は大繁盛で、連日混雑していた。混雑の理由としてこの街に皮膚科が少ないことも挙げられるが、高相先生が優しい。これも理由の1つであると思う。先生はいつも穏やかでニコニコしていた。
「こことここが痒いんです」と訴えると、「可哀想に...」と先生は悲しそうに微笑み、アトピーの腕をやさしく撫でてくれた。そして先生はナデナデした後に薬を塗ってくれた。これが高相先生の診察スタイルである。
ある日。例のごとく掻きむしってお尻から血が出るほど酷いアトピーを発症してしまったわたしは高相先生の皮膚科を受診した。
「先生、お尻がまた痒くなりました」 
「可哀想に...」
流石におしりのときはナデナデとお薬ヌリヌリは省略され、わたしのアトピーのおしりは先生の悲しそうな視線にしばし晒された。そして「君みたいなアトピーの子は化繊のパンツは痒くなるから、綿100%のおばさんパンツかTバックを履きなさい」と突然先生からパンツのアドバイスを受けたのだった。
「先生、Tバックですか?」
「そうです。患部を刺激しないから痒みを抑えられますよ」
わたしは悩んだ。
この時わたしにとってTバックは未知の代物だった。なんか履いてて痛そうだし、ボツボツの尻を露わにするのも気が引けた。だからといっておばさんパンツも履きたくない。だってわたしはヤングアダルト。もう少し張り切りたかった。
わたしは片道30分のバスの中で頭を抱えて、そして結論を出した。よし。これからはおしりのためにTバックを履こう、と。
早速家に帰ったヤングアダルトは、家族に今度からおしりのためにTバックを履く旨を伝えた。これは洗濯をしてくれる母親が、突然洗濯物からTバックが出てきても驚かないようにするための予防線であった。わたしはお尻のために致し方なくTバックを履いてるんです。決して盛りがついた訳ではありませんよと。「今日、高相先生からTバックを勧められた!」わたしは念を押して家族に訴えたのだった。そして家族は「そうかそうか」と娘のTバック宣言を受け入れてくれたのだった。
さて、そうと決まればTバックを買いにいこう。ヤングアダルト且つクールギャルであった当時の私が向かった先は、イタリア発の軟派カジュアルブランド、DIESELであった。DIESELにはデニム生地のショーツなどがあり、下着っぽくない感じがわたしのTに対する抵抗を和らげてくれた。しかし下着っぽくはないが、所詮TはT。わたしはデニム生地のTを広げて固まっていた。すると
「それ生地が柔らかくて履きやすいですよ」
と店員さんがそっと近づき声をかけてくれたのだった。背が小さくて目が大きい、金髪のショートカットがよく似合う可愛いお姉さんだった。
「わたしも同じの持ってます!」
「?!?!!」
お姉さん、こんな可愛い顔してTをお履きになられてるんですか...
「下着がパンツに響きたくないときはこれ履いてるんですよね」
と、ご丁寧にTとの付き合い方もアドバイスしてくれた。こんな可愛いお姉さんが履いてるTなんだからきっと良いTに決まっている。と軟派カジュアルギャルに後押しをされ、わたしはDIESELでファーストTバックを購入したのであった。
翌日、早速Tを履いて仕事に行った。想像通り落ち着かないし、食い込む感が否めない。正直気持ちが悪かった。あの軟派カジュアルギャルはこんなものを履いてなんとも思わないのだろうか。しかしまだわたしはデビューしたばかり。慣れもあるのだろう。私は気長にTと付き合っていくことを心に決めた。
結局その1枚しか購入をしなかったため、わたしは週に何回かTを履いてすごしていたのであった。
そんなある日。親しい友人に医者からTを勧められた話をすると「わたしTバック派なんだよね」と身近なところにT愛好家を発見することができたのだった。これは!と思い、わたしは日頃Tに対して感じている不満を彼女にぶつけてみた。すると
「フチがついてるのはパンツに響くし締め付けられる感じがあるよね。細いのは食い込んでくるし。オススメは総レースのタイプで、太めの物は食い込みにくくて履きやすいよ。Forever21にいいのがあって、780円くらいで売ってるよ」
これは朗報でした。DIESELTバック1枚買うのにForever21では6枚買える計算です。つまり、毎日Tが履けるというわけです。
フットワークの軽いわたしは早速ロサンゼルス発最新トレンドファッションブランド、Forever21に向かったのでありました。噂通りの総レースを発見。こちらの商品を780円×4枚程購入し、それからというもの毎日Tを履いたのでした。履き心地はなかなか。これならいける。アトピーを克服できるぞ!やれるぞ!わたしのやる気は一気にアップした。
こうしてわたしはTに対して前向きな気持ちになることができ、当初は暗めな色のTを選びがちだったが、Tに信頼を寄せるようになると、ポジティブな気持ちの赤!強い気持ちのヒョウ!など色彩心理学の影響をもろに受けた色や柄のチョイスをするようになった。洗濯をする母からは「あんたの趣味はどうなってるんだ」と言われた日もあったが、派手なTを選んでしまうのはポジティブな気持ちの表れ。仕方がなかった。決して盛りがMAXになった訳ではないのだ。
数年間Tバックを喜んで履いていたかいがあってか、あんなに悩まされたわたしのアトピーは鎮静化していった。しかし歳を重ねてミドルアダルトに近づいてくると尻が寒いという理由からTバックからおばさんパンツへとシフトしていったのだった。そうか筆者はベージュのパンツを履いてんだなと思われた皆さん。違います。ここで誤解を解いておきたい。オーガニック商品を好むナチュラリストの増加に伴い、おばさんパンツと呼ばれる綿100%のパンツもスタイリッシュなデザインの物も増え、昔とは訳が違うのである。決してゆったりめのベージュのパンツを私が履いてるとは思わないでいただきたい。だってなんてったってわたしは新妻。まだまだ張り切らないといけないのです。

あだ名

多くの人が少なくとも1〜2個のあだ名を持っているように思う。わたしもまぁまぁの数のあだ名を持っている。

まずブログやサイトで名乗っている「さとみこんこん」これもあだ名みたいなものである。しかしこの「さとみこんこん」実際に呼ぶ際には、ほとんどの人が呼びにくいと感じる様で「さとみさん」「こんこんさん」など省略して呼ばれることがほとんどで「さとみこんこん」とフルニックネームで呼んでくれるのは私の義理の兄くらいしかいない。

ちなみに1番ベーシックなあだ名はさと、さっと。その他さとちゃん、さとみん、さとちん、さとやんなど「さと」を基準に装飾されて呼ばれることが多いのだが、小学生の頃「さと」と全く関係のないあだ名で呼ばれていたことがある。



伊達公子



伊達公子」である。これは小6のころのあだ名で、一部の男子がそう呼んでいた。解説するとわたしは伊達公子に似ていない。テニスもしたことがない。テニスも伊達公子も好きだった訳でもない。日焼けしているわけでもない。クルムもパン屋も関係ない。なのに伊達公子なのである。

何故か。

実は小6の時に他にも呼ばれていたあだ名がある。



テニスコート



わたしは「伊達公子」の前は「テニスコート」と呼ばれていた。先ほども述べた様にテニスをしていたわけではない。テニスコートが家にあったわけでもない。テニスコートが好きだったわけでもない。ないのである。  

何故か。


実は「伊達公子」「テニスコート」の前に呼ばれていたあだ名があった。


ペチャパイである。


伊達公子」「テニスコート」と呼んでいた男子はそもそもわたしのことを「ペチャパイ」と呼んでいた。ひどいもんである。

背はまぁまぁ高いがのんびり発育していた私は確かにブラジャーなんかいらないような胸だった。小学校の時には生理もこなかったし、脇毛なんて20歳まで生えてこなかった。

つまり仰せの通りペチャパイだったのである。「おい!ペチャパイ」と呼ばれても事実であるため反論もできず「ムムム...」と辛抱する毎日であった。

それがある日、ペチャパイから「おい!テニスコート」と呼び名が変わったのだ。話を聞いてみると「胸が平すぎてテニスができそうだから」とのこと。乳首にネットを張るとか訳のわからないことも言っていた。小6の男子はロクなことを考えないねまったく。と思いつつも「テニスコートw」と胸の上でテニスが地味に自分の中でウケて割と気に入っていたあだ名それが「テニスコート」であった。

そんな、なかなか良いあだ名テニスコートもだんだん大衆に飽きられてしまう。そして次についたあだ名が「伊達公子」であった。

テニスと言えば伊達公子っしょ!という小6男子の安直な考えから生まれたあだ名、それが伊達公子であった。つまり伊達公子はペチャパイ→テニスコートの過程を経て伊達公子にたどり着いたわけである。イナダ→ワラサ→ブリ   日吉丸→ 木下藤吉郎豊臣秀吉    ゼニガメカメールカメックス と同様ペチャパイ→テニスコート伊達公子も小6男子の経験値や発想の転換から呼び名が変化していったのだ。ペチャパイ女から伊達公子と呼ばれる様になったことは確かにゼニガメからカメックスくらいレベルアップしている。ペチャパイの進化系伊達公子。小6男子なかなかいいセンスじゃないの!

でも一つだけずっと不満に思っていることがある。


どうせなら伊達公子じゃなくてシャラポワが良かった。






小銭を拾ってあげたかった

ある日わたしは勤め先の歯医者で受付をしていた。待合室には70代のご婦人が2名会計待ちをしている。

先に診察が終わった婦人Aの名前を呼び受付にて会計、次回の予約を取っていた。待合室にはソファーが置いてあるのだが、受付からソファーまではだいたい4メートルくらい離れている。その時婦人Bはソファーに腰をかけていたのであった。

するとである。

ガチャーーーン

物音に驚きながら何事かと顔をあげるとソファーに腰をかけていたはずの婦人Bが床を這ってアワアワしていた。

フローリングの床一面に小銭が散らばっていた。

慌てる婦人B。きっと会計の時にスムーズに進むよう段取っていたのだろう。そして段取りに失敗した結果、財布から小銭をぶち撒き床を這う行動に繋がったようだ。

しかも何故か年寄りは小銭を大量に持っている傾向にある。このご婦人も然り。大量の小銭は四方八方に散らばった。

あぁ...ごめんなさい。と申し訳なさそうに小銭を拾う婦人B。

大変だ。すぐにでも小銭を拾ってあげたい。だけどわたしは婦人Aの受付中。

4、5枚の小銭は車輪のようにコロコロと転がり婦人Aの足元あたりで力つきて止まった。

囲いの中にいるわたしは拾ってあげられないけれど、婦人Aが拾ってくれるだろう。そう思っていたが婦人Aは全くもって無視。さっきからずっと無視。ガチャーンと小銭が散らばった時に振り向いたような気もしたが無視。別に耳が不自由なわけでもなし。

なんでこの人小銭を拾ってあげないんだろう。

婦人Bはまだ床を這っている。

婦人A、足元の銭くらい拾ってあげてくれと眼力で訴えた。

全くもって無視を貫く婦人A。

わたしはモヤモヤした。

仕方ない。わたしがさっさと受付を済ませて拾ってあげよう。

アップテンポで次回の予約をとり「お大事に」で締めくくる。

婦人Bは四つん這いからようやく立ち上がり、ソファーに再び腰をかけていたが、まだ婦人Aの足元には婦人Bの小銭が数枚散らばっている。

拾ってあげなきゃ。

受付の囲いから出て待合室へ向かう。

さぁ、小銭を拾ってあげよう!

せっせと駆けつけ待合室の扉を開けた瞬間

「コーーートーーー(怒)」

ドスのきいた声で叫ぶ婦人A。

泣く泣く開けた扉をそのまま締めて婦人Aのお預かりのコートを取りに行く。

そんな元気があるなら小銭拾ってあげてくれよ婦人A。

婦人Aに失礼しましたとコートを返しさっさと帰れと玄関のドアを開けて見送る。

やれやれとドアを閉め、ようやく落ちていた小銭を拾って婦人Bに渡すことができた。

「小銭まだ落ちてましたよ。すぐに駆けつけられなくてすみません。」

「ありがとう。こちらこそごめんなさいね。お恥ずかしい」

これで一件落着である。

落ちてしまった小銭を拾ってあげて渡す。ただそれだけのことを何故婦人Aはしなかったのだろうか。


婦人Aが小銭を拾わなかったことがショックすぎて小銭を拾わなかった婦人Aのことを昼休みの時に先輩に話した。

すると、

「落ちたお金を拾っちゃいけないって思ってる人もいるからね」

「!!?!」

拾うのが当たり前だと思っていた落ちた小銭。拾わない人はそれなりに理由があるということを先輩から学んだ。風水的によくないとかそういうことなんだろうか。その時は「そうなんですか!」と言って終わった。

後日調べてみるとタイでは落ちた小銭は不浄となされ拾わない人が多いとか、ささやかなことで運を使ってしまいもったいないので拾わないとか、そういった仏教の教えがあるらしい。

またインターネットで調べると、Yahoo!知恵袋で人が落とした小銭を拾うかどうか質問していて、盗ると思われるから拾わないというアンサーがあった。拾って貰う人がそんなこと思うかと驚き、拾う側にもよっしゃ小銭ゲットと盗っ人する人がいるのかよと二度驚き、わたしは人生がわからなくなった。


それでもわたしは盗っ人のレッテルを貼られるリスクを背負ってでも小銭が落ちていたら拾ってあげたいし、落とし主がわからない小銭も拾い、1円でも拾っている。なぜならもったいないから。

こうやってささやかな運を使っているせいで、大きな運気がわたしには流れてこないのかもしれない。

しかしそんなある日、わたしは道端で4000円を拾ったのだ。裸でポロっと落ちていた4000円。そのまま貰うのもなんだか気が引けたので交番に届けた。すると財布に入っていないお金というのは持ち主が現れにくく、結局そのお金は数ヶ月後の12月に拾い主のわたしに戻ってきた。わたしはそのお金でクリスマスに食べるチキンとケーキを買おう!とガッツポーズをした。

仏様的には馬鹿者とお叱りになるのかもしれないけど、イエス様はきっと拾ったお金で生誕を祝っても許してくれますよね、アーメン。と、拾った4000円でありがたくチキンとケーキを買ってクリスマスを祝ったのだった。

これからもわたしは自信を持って小銭を拾っていきたいと思います!