カニクリームコロッケが大好きです。

カニクリームコロッケって大好き。カニクリームコロッケを見つけたら必ず注文するほど好き。

でもわたしはカニクリームコロッケの味をしらない。だからいっつもカニクリームコロッケを注文しても「おいしいけどこれがカニクリームコロッケ?」で終わる。

その原因は、たぶん我が家の食卓でカニクリームコロッケが出なかったことが理由の1つだと思う。基準がないからいつ頼んでも「?」で終わってしまうのだ。

そもそもカニクリームコロッケってカニが入ってるの?
カニが入ったカニクリームコロッケを食べたことはほぼない気がする。一回くらいあったかもしれない。これカニかな?っていうくらいのカニの入ったコロッケを、食べたかもしれない。けどよく覚えていない。

今日食べたカニクリームコロッケには、エビが入っていた。なんでもいいのかな。カニクリームコロッケなのにエビでもいいのかな。
これはステーキです!と謳っていたのに、実は牛脂を注入した加工肉でした!というニュースで大騒ぎしていた日本の国民は、カニクリームコロッケにエビが入ってても、カニが入っていなくても、それはいいのだろうか。怒られないのだろうか。

そもそも私はカニクリームコロッケが好きなのだろうか。カニクリームコロッケが好きな自分が好きなのではないだろうか。

いよいよもってカニクリームコロッケが好きな自分に自信がなくなってきた。冒頭で大好き!と言っているのにもかかわらず....

でも副都心線の中で、わたしは思い出したのだ!
そういえば小学校の遠足のお弁当でよく冷凍のカニクリームコロッケが入っていたな、という事実を!しかもそのカニクリームコロッケは爪つきのカニクリームコロッケで、食べ終わった後にそのカニの爪をチョキチョキさせて遊ぶのが好きだった。そういえば、そうだったな、と。副都心線から丸ノ内線の乗り換えで思い出したのであった。

え?じゃあわたしが好きなのは、カニクリームコロッケを食べ終わった後のカニの爪だったのか?
いや、それだけじゃないはず。

恐らく、食卓にならばないカニクリームコロッケが遠足の時にだけ出てくる楽しみ。それをずっと大人になった今でも引きずっているのかもしれない。

あぁ。そうか、そういうことか。そういえば、味だけでいえばカキフライのほうが好きだな。とふと思った三十路の春。
わたしは悟ってしまった。
もしかしたらもうカニクリームコロッケを頼まないかもしれない。

いや、やっぱりカニクリームコロッケを見つけてはまた注文し「これがカニクリームコロッケ?」って思うバカなままのわたしかもしれない。




文字そばが好きです。

わたしはオモコロの「文字そば」が好きだ。
どういうコーナーかというと、1000文字くらいのテキストで、たぶん読む時にするりとそばみたいにいけるから「文字そば」なんだろうと思っている。

わたしもブログや記事をせっせと書いているのだが、文字数は特に意識せずに書いていた。

ある日、
「記事を2000文字程度でまとめてください。」
という指示を受け、その時初めて文字数を意識したのであった

2000文字って?多いよな?

2000文字ってどのくらいなんだろうと思い調べてみると、だいたい原稿用紙5枚とでてきた。
5枚かぁ〜!やっぱ多いいなぁ!そんなに書けるかなぁ...

じゃあ今まで書いたブログの記事は一体何文字なんだ?と気になり 

「本当はハイエナズクラブに入りたかった。」

という自分のブログの文字数を調べてみることにした。すると、


6327文字であることがわかった。


受けた指示の3倍書いていたのだ。


え....そんなつもりは....。


この記事は非常に筆が進んでしまったのかもしれない。では他の記事は?と調べると、


4928文字。

さっきよりマシだけど2倍以上だ。

どんだけ語りたいんだろうか...

だんだん自分が恥ずかしく思えてきた。

おそらく2000文字という指定は読む側のことを考慮すると丁度良い文字数なんだろうと考えた。この時に2000文字で語ることの難しさを知ったのだった。

だから「文字そば」を書く人達は本当にすごい!1000文字で語るって大変だ!

それからというもの、自分もまずは3000文字以内でブログをまとめるよう意識するようになった。

ある日、新しい「文字そば」記事が更新された。
わーい新しい文字そばだ!

楽しみにしている文字そば。しかしこの日わたしはあることに気づいたのであった。

この人の記事...長くない?


文字感が身についたわたしは、読むとだいたい何文字くらいかわかるようになったのであった。
するりといく文字そばのはずが、すすっている途中でムセを感じたのだ。

わたしは早速この記事の文字数をカウントした。


1350文字。


あれ?1000文字じゃない。


文字そばの説明を読むと、1000文字くらいのテキストと書かれていた。

オモコロの「くらい」は350文字まではセーフということがわかった。

じゃあ次の人は?1230か。


え?じゃあわたしの好きなこの文字そばは!1177か!

わ、原宿さんすごい1039文字!ニアピン賞!


などと文字そばを使ってピタリ賞を探し出すという新しい遊びを覚えた私なのであった。


ちなみにわたしのこの記事は


1048文字♡



掟ポルシェ×爪切男 トークイベントに行けなかった話

先日、掟ポルシェ氏と爪切男氏のトークショーがあった。わたしはこのトークショーを非常に楽しみにしていて早々とチケットを入手したのだったが、残念なことに流行遅れのインフルエンザにかかってしまい、泣く泣くイベントを諦めたのであった。
しかしこのトークショー「仕事に前向きになれない人に元気を与える」をコンセプトにしていたので、案外インフルエンザウィルスの持ち込みはウエルカムなんじゃ...と最低な考えを抱いた日もあったのだが、購入したチケットはツイッターで行きたいと名乗りでてくれた人にプレゼントをさせてもらい、自身は大人しく家で療養したのであった。

こんなに行きたかったアピールをするのだから、よっぽどファンなんだろうと思われるかもしれないが、実際のところわたしはどちらのこともよく知らないというのが本音である。
掟ポルシェ氏は、三宿にあるwebのイベントによく出てたなぁというイメージしかなかった。わたしはちょこちょこ三宿のwebに遊びに行っていたのだが、掟ポルシェ氏の出演しているイベントには一度も行ったことはなかった。ただ、掟ポルシェという名前だけは印象深かった。
しかし今年に入って、坂本慎太郎ファン仲間であるカシューナッツちゃんという友人が、

「以前、掟ポルシェのイベントに行ったら掟ポルシェがベロベロに舐めたちくわを口に突っ込まれて、さらに走って追いかけられた!」

という胸騒ぎのするエピソードを語っていて、掟ポルシェ氏に少し興味を持ち始めたところだった。

爪切男氏はツイッターで多くの人がイイネイイネ言っていたのでなんか気になるなぁと感じる程度であったのだが、出版された本「冷たい夜にかぎって」のポテチ光秀氏の装丁が好みだったので、その本をジャケ買いしたのであった。
購入した本を読んでみると、何人かのキーパーソンの女性陣が出てくるのだが、その中で1番多く語られていた「アスカ」に私は親近感を抱いた。

そう。爪切男氏というよりもアスカに通ずるものを感じ、イベントに行ってみたいと思ったのであった。

その通ずるものというのが「唾」である。

アスカは唾マニア達に自分の「唾」を売ってなかなかの収入を得ていたそうなのだが、わたしも「唾」で収入を得ている1人なのである。それだけで収入を得ている訳ではないが、仕事の一環として唾の判定をする仕事を任されている。唾の判定をしてこの道10年になる唾師である。

簡単に仕事内容を説明すると、専用のガムを噛んで唾がでたら試験管に入れてもらい、その溜まった唾をみて「あなたの唾はこうです。」と唾分析をする仕事をしている。
唾師として1番華やかだった仕事は、雑誌の連載で女優さんたちの唾の分析をするという仕事であった。1年くらいやっていた。
「あなたすごい仕事してるのね。」
と、決して尊敬ではない哀れみの言葉をかけられながらも

「めっちゃいい唾してます!」

「こんなに唾出る人みたことがない!」

「すごく質のいい唾されてますよ!」

と唾ヨイショしまくった結果

「わたしのチャームポイントは今度から唾にします。」

と唾に自信を持ってくれた女優さんもいて、この時の体験はわたしも唾師として自信を持つことができた大変ありがたいお仕事であった。

そんな唾でご飯を食べてる人間が自分以外にいるとは思いもよらず、
アスカの存在を知った時には大変驚いた。
もうアスカは唾売りから足を洗っているようなのだが、唾を欲しがる人間と、唾を売る人間がいて、そこでビジネスが生まれている事実を知ったことはわたしにとって重要であった。
唾師一本でも働けるということがわかったからである。
路上で唾の売買をする人間を見つけてその唾に付加価値をつけてあげるのだ。「この唾めっちゃフレッシュですよ。」とか言ったりして。きっとわたしは今よりいい家に住めるようになるであろう。

そんな妄想を抱き、参加したかった今回のイベント。
通ずるものを感じてイベントに参加しようと思ったのだが、結局通ずるものがなかったのか、インフルエンザに感染し参加できなくなったのであった。非常に残念である。

しかし、チャンスは続くもので4月11日に今度は爪切男氏とポテチ光秀氏がトークイベントをすると言ってるではありませんか。今度こそ参加して、「わたしは唾師。」という胸の内を爪切男氏に伝えてみようと思う。もっと理想的なのは、この日アスカに会うことができて、「一緒に唾で生計を立てませんか」と申し出られれば最高である。

そしていつになるかわからないが、掟ポルシェ氏にも、「掟さんの唾を分析するので、ベロベロになめたちくわにもっと付加価値をつけましょうよ。」
と唾師としてオファーをしてみたいと、妄想するわたしなのであった。



諦めずに啜ってください。

わたしの通っていた高校には学食があった。メニューはそこそこあって、鳥の唐揚げ丼やオムそばが好評で、あとラーメンとかうどんなどがあった。
お昼の時間は学生達が席の取り合いになるほど母校の学食は人気だった。

わたしは基本お弁当を持ってきていたので、滅多に学食は利用しなかったのだが、お弁当を食べ終わった後、学食にアイスを買いに行ったり、学食で食べてる友達にちょっかいをかけにいったりしていた。

その時もお弁当を食べ終わった後、3人くらいで学食にいる友達のところにちょっかいをかけにいったのだった。

そのちょっかいをかけに行った友達というのがえらい美人で、鈴木亜美にも、柴咲コウにも、戸田恵梨香にも似ているとにかく美人な友人で、校内のミスコンにも選ばれていた。
さらにプロポーションも良くSっぽいときたもんだからまぁモテた。

そんな美人に会いに学食に向かうと、美人はうどんを食べていた。
たしかわかめうどんだったと思う。
そんな美人のとなりに、うるさくて有名だった友人が鳥の唐揚げ丼を食べていた。

存在もうるさかった彼女は、授業中に当時分厚いフリーペーパーであった、「ホットペッパー」でエクステの安い店を探しているところを先生に取り押さえられ、机ごと廊下に引きずり出されていた。その時の心情を「静かにホットペッパー読んでただけなのになんであそこまでされたんだ?」と語っていたが、たぶん存在がうるさかったからだと思う。
また他の授業でもカンニングをしていると濡れ衣を着せられ、やっぱりその時も廊下に引きずり出されていた。「わたしはカンニングをしていなかったのになんであそこまでされたんだ?」と語っていたが、やっぱり存在がうるさいことが原因だと思われる。

そんな何かと目立つ2人が仲良くお昼を食べていたのだったが、
少しお昼の時間からずれていたこともあり、いつも混み合っている学食はめずらしく空いていた。
お昼を済ませた我々3人は、空いている席に座り、食べている2人の周りを囲んでダラダラと喋っていた。

すると存在のうるさい友人が、美人の友人に

「ねぇ、ちょっとうどん食べさせてよ。」

と、うどんちょうだい とねだったのであった。
美人はいいよ。と、うどんのどんぶりを存在のうるさい友人に渡し、それと引き換えに鳥から丼のどんぶりを受け取ったのだった。

美人は鳥から丼を食べ、存在のうるさい友人はわかめうどんをすすった。

そして咀嚼した。

「美味しい〜!」

と存在のうるさい友人は満足そうに言ってうどんを返そうとした。


すると、美人が

「....ねぇ。いまさ、うどんきったでしょ。噛み切ったでしょ?」


美人は和やかなランチタイムに一石を投じるような言葉を発したのだった。

みんな一瞬何を言っているのかわからず、
美人以外の反応は

「???」

だった。

すると美人は先ほどと変わらぬテンションで、

「だから、うどん!麺!途中できったでしょ!」

存在のうるさい友人は、たしかにきったので

「....うん。」

と弱々しく答えた。

ちょっかいをかけにきたはずだった3人のギャラリーは「ごくり」と息を飲んだ。

「だから、きれた麺が残るじゃん!中途半端にきれた麺がスープの中に残るじゃん!残るでしょ?」

「で?」と思ってしまったが、美人をこれ以上ヒステリックグラマーにさせてはいかんと思って黙っていた。

「嫌でしょ!細かい麺が残ったうどん!嫌じゃないの?」

信じられない!といった具合で美人はうどんを自分の方へと引き寄せた。

「ごめんね。。」

存在のうるさい友人は、とても静かであった。
うどんの食べ方を美人に怒られ、しゅん。とした友人の姿は可哀想としか言いようがなかった。

そしてギャラリーの1人だったわたしも怒られたような気分になったのだった。


あまりにも衝撃的だったこの出来事。その日の夕方、当時の彼氏であった たっちゃんにわたしは一部始終説明をした。

するとたっちゃんは、

「そりゃ怒られるよ。俺もきれた麺が残ったうどん、食べるのやだもん。」

!!!?!!


うどんを途中できっちゃいけないんですか?

ラーメンも?そばも?フォーも?

一本うどんは?

目からウロコのカルチャーショック。

そして、その日から私は決心したのだった。
絶対に麺類を食べたときは切るもんかと!

熱かろうが苦しかろうがわたしは麺類を啜りきることを決意した。
途中苦しいこともある。特にラーメン。啜っている途中で熱くて噛み切ってしまいたくなることもある。火傷をしたこともあった。
切っちゃおうかな。と、くじけそうになったこともあるけど、そんな時は決まって美人の顔が浮かぶ。そしてこう問われるのだ。

「細かくなった麺、残るの嫌じゃないの?」

だから、啜る。何が何でも啜る。無理なときは麺を咥えたまま、一旦休憩して、また啜る。
そうして完食しきったどんぶりを見たとき、なんとも清々しい気分になるのだ。あのとき辛かったけど、頑張って啜ってよかったなぁ。って。

そう。これは人生。麺を切らずに啜りきることは人生そのもの。

わたしはそう思うのです。よ。皆さん!



皆さん!

皆さんも明日から是非どうぞ!






ご飯とか、はんぺんとか、お豆腐とか、白いものだね。

結論からいうと、わたしは「ハゲは隠すべきではない」と思っている。

なぜそう思うかというと、ハゲを隠して上手くいっている人間を見たことがないからである。

そして、コンプレックスであるはずのハゲを使って、モテている人間を実際に知っているからである。

そんなわたしのハゲ哲学は5人のハゲから学んだ。


1人目は林先生だ。


林先生はわたしの人生でまぁまぁ大きな衝撃を与えた先生で、学童期の頃にハゲ哲学だけではなく、変態学も学ばせていただいた重要な人物である。そのため以前もブログで紹介した。


http://satomiconcon.hatenablog.jp/entry/2018/01/21/113518


彼はマッキーでハゲを隠していたのだが、

その違和感といったら凄まじく、近寄られたくないな...というのが可愛かったころの私の感想である。

この時点で、どうしてハゲを隠すんだろう(マッキーで。)という素朴な疑問を感じ、ハゲに対しての興味が湧いたのであった。


2人目は坂本先生だ。


中学生の社会科の坂本先生は、若いのにハゲてしまった先生であった。たしか20代からハゲが始まったと言っていた。だけど先生はそんな過去を授業中に話してくれる明るいハゲであった。

生徒が「ハゲ!」といえば、


「あのな。ハゲもいいことがあるんだぞ。40代の同窓会に行くと、おまえだれだよっていうくらい変わっちゃう奴が多いんだけど、俺は変わらないって言われるんだ。昔からハゲてる奴は変わらないんだぞ。」


と言ったセリフはわたしのハゲ哲学のベースとなっている。若ハゲは老けない。そうかそうかと。そんなオープンマインドでハゲの坂本先生は、非常に生徒から好かれていた。水泳の指導をしていた坂本先生に「さとみこんこんは平泳ぎのフォームが綺麗だ!」と言われたことを今でも誇りに思っている。


3人目は絶対王政


この先生はたしか中学の世界史の先生で、本名は忘れてしまったのだが、絶対王政の授業でやたら熱を入れ出したために、生徒から絶対王政というあだ名をつけられてしまった先生である。独特の喋り方と、ヘアスタイルが特徴的であった。


先生は一目見れば「かつら」とわかるスタイルで、ハゲでかつらの人は、隠したいのか、目立たせたいのか、どっちなんだろう。とハゲの心理に興味を持ったきっかけをくれた先生である。


ある日、事件が起きた。些細なことから男子生徒と絶対王政が授業中に口論になってしまったのであった。

両者が熱くなって口論が荒々しくなってくると、年頃の思春期の彼は自分の感情のコントロールが上手くできず手がでてしまった。

さらに動物の本能的に相手の弱いところを狙いにいった彼の的は、例の独特のヘアスタイルであった。


掴む!かわす!掴む!かわす!


非常に白熱した戦いに観客の生徒は釘付け。

しかし、やっぱり若さってのは時として強さでもあり、持久戦に持ち込んで彼は取ったんですねあれを。そして彼は首を取った侍のように、先生のヘアを空高く掲げ喜んだのだった。


破れた絶対王政は、ネットを被った鬼のような形相で、ネット被ったトマトみたいな顔色で、めちゃめちゃ怒っていたのだった。

あんまりにもネット姿にインパクトがあったもんで、そのシーンしか覚えておらず、

その後、その男子生徒がどうなったかは覚えていない。

そしてわたしは、かつらを被るなら絶対にかつらだとバレないかつらを被った方が良い。という哲学を持った次第である。



4人目は合コンで知り合った2人の男だ。


その合コンは、非常に思い出深い合コンであった。

まずわたしは合コンのことを忘れていて、うっかり翌日に大腸検査の予約を入れてしまったのであった。

大腸検査をするにあたって、前日の夜から消化の良いものを9時までに食べないといけないきまりがあった。先生に、


「具体的に消化の良い食べ物ってなんですか?」


と尋ねると、


「ご飯とか、はんぺんとか、お豆腐とか、白いものだね。」


との返答。


そんな9時までに白いものを食べないといけない厄介な状態で、3対3の合コンに参加したのであったが、

相手側もなかなかパンチのきいたメンツが揃っていたのである。


3人中2人がハゲであったのだ。


1人は前方からまぁまぁきてるはげで、もう1人はハゲ散らかってるタイプの重症なハゲであった。


だけど、重症なタイプは最初キャップ帽を

被って平然を装っており、自己紹介をするときになったら


「よろしくお願いしまーす!」


と帽子をとってあいさつし、ハゲ散らかった後頭部を見せつけてきたのであった。随分余裕を感じる重症なハゲである。

さらにハゲ2人の名字は偶然にも同じ名字でややっこしかった。


見た目は少々クセはあるけど、3人とも心優しく、

キャッチフレーズ「9時までに白いものを食べないといけない女」のわたしにも皆気をつかってくれた。


「とろろは白いからオッケーだね!」


「炊き込みご飯はNG?」


「揚げ豆腐はどうだろうか。」


などと、一緒に考えてくれハゲ2人の好感度も高かった。


結構、この「9時までに白いものを食べないといけない」の縛りがいいイベントになって、合コンがちょっぴり盛り上がったような気もする。


この日の合コンは良い雰囲気で幕を閉じ、今度はみんなで花見にいきましょうといって解散をした。


そして数ヶ月後、本当にこの話は実現し、またみんなで集まって中目黒の空き地にブルーシートをひいて花見をしたのだった。


花見が終わった後は皆で中目黒のカラオケに行き、楽しく歌を歌った。

ここで、すごい才能を見せたのがハゲ散らかった重症のハゲで、めちゃめちゃ歌がうまかったのである。

L'Arc〜en〜Cielの「honey」を歌ってくれたのだが、鳥肌が立つほど上手く

「ハイドーーー!!!」と叫びながらわたしは目をつぶっていた。


そしてそのあともう1回くらい集まったか、集まらなかったかよく覚えていないのだが、どちらにしてもこのメンバーで会うということはなくなったのであった。



数年後。



たまたま、モノマネ王座決定戦をテレビで見ていると、

ハゲ散らかったL'Arc〜en〜Cielが現れたのであった。


「!!?!!!」



さらに月日が経ち、



「優勝おめでとうございまーす!」



「!!?!!!」



ハゲ散らかった人が、とても有名なコンテストで優勝したのだった。



そして、前方からまぁまぁきていたハゲの人の活躍も、とてもよく見かけるようになったのである。




現代のハゲは、金になるのだ。



だからハゲは隠さない方が良いとわたしは思っている。

そしてハゲ+αの才能があれば、モテると思う。時にそれは金になるのだ。


なのでハゲでかつらを買うことを検討するのであれば、手品に挑戦したり、料理教室に通ったり、

ハゲで固めた合コンを開いたり、

合コンの翌日に大腸検査でも受けて金を使ったほういいんじゃないかと、


わたしの経験からはそう言えるのだ。



ちょっと馬になってごらんなさい

私には特発性側弯症という持病がある。どんな病気かというと背骨が成長の過程でぐにゃぐにゃと曲がってしまう病気なのだが、痛みもなかったので全く気がつかずに生活をしていた。

 そんなある日。中学校3年生の私は友人と馬跳びをしながら帰ることにした。

 

まず私から馬を飛んだ。馬になった友人の背中に手をつけてピョン♪と飛んだ。

今度は私が馬になって友人が私の背中に手をつけてピョン♪と飛んだ次の瞬間

 

「ギャーーーーー!」

 

友人が何故か叫んだのであった。馬だった私は屈んでいたので何が起きたかわからず、急いで顔を上げて友人を見た。

すると友人は地面に手と膝をついたまま停止していた。どうやら着地に失敗したようである。

 

「だ、大丈夫?」

 

と、友人に声をかけ手を差し伸べた私に、友人は強い眼光で私を見つめこう言い放った。

 

「ねぇ、背中おかしいよ」

「でこぼこしていてうまく飛べない」

「あなたの馬は怖い」

 

馬が怖いって....え?

それ以来その友人は私と馬跳びをして帰ってくれなくなった。

 

私は大変ショックを受け、私の馬が怖いと言われた事実を家に帰って報告した。

 両親も娘の馬が怖いという事実に驚き

 

「ちょっと馬になってごらんなさい」

 

と事実確認を行った。

 

「たしかに背中がこんもりしている....」

 

側弯症は個人差もあるのだが横への変形だけでなく前後にもねじれることがある。そのため背中を曲げたときに骨がもりあがり、その結果「馬が怖い」に繋がったのである。

 

こうして中学校3年の時にようやく背骨の変形に気がついた私は、整形外科の診察を受けにいったのであった。

 

「特発性側弯症のようですね。原因は不明です。42度の変形がありますね」

そう言って、医師は私と付き添いの母に側弯症についてかかれた紙を渡した。

そこには40度以上の側弯症は1000人に3人程度の確率でなる病気と書かれていた。

なんだか大変そうな病気じゃないか。もっといい事で当選したかった。なんでよりによって馬が怖い病気に...

 

しかし、なんだか珍しい病気の宣告をされても馬跳びの馬に不向きということ以外に特に生活に支障がなかったため、私も親もそんなに気にはしなかった。

 

ある日、母が実は娘がそんな病気らしい。と何気なく親戚に電話で話をすると、その親戚が泣き出すという事件が起きた。

 

「評判のいい気功の先生を知ってるからそこに通ってみなさい!」

 

涙ながらに訴えられたら行かないわけにもいかず、私は気功の診察に通院することになった。

しかしその評判の良い先生が水曜の朝9時からではないと診察をしなかったので、気功に行ってから中学校に登校するしかなく毎週水曜日は遅刻の日となってしまった。

 

気功では何をしたかというと、手を背中につけるかつけないかの寸止めくらいで先生が「ブシッ!ブシッ!」と言って背中に気を送るという診察を受けた。だいたい15分くらい背中に気を送ってもらっていた。

どうしても水曜日の診察に行くことができなかった時は、土曜日の先生にお願いをしたこともあった。

その時の先生は「ヒョッ!ヒョッ!」と言いながらゆるやかに背中に気を送ってくれた。いつもの先生はパワーみなぎる感じでスピード感もあるけど、この先生はなんだかマイルドであった。気功も先生によってスタイルが違うことを学んだ。

そして半年後の背骨の検診。果たして気功の効果のほどは?

 

「43度。特に変化ありませんね」

 

....。

 

なんなら1度増えている。

わたしは気功に通うのをやめた。

 

その後は特にこれといって何もせずに過ごしていたのだが、年に一回程度背骨の検診だけは真面目に通っていた。

しかし、いつも言われることは

「43度。変化ありません」

であった。

この検診はいつまで続くのだろうか。

23歳になった時に

「先生、ちなみ私は手術をしなくていいんですか?もうひたすら経過を見ていけばいいんですか?」

と今後の方針を尋ねた。

 

すると

 

「君は40度超えてるから手術適応なんだよね。まぁ、するかしないかでいったら...手術した方がいいんじゃない?」

 

クソが.....

 

 

私は8年間経過を見てくれた先生を一気に信用できなくなり、他の病院を探すことを決めた。

そんな私の状況を知った職場の医院長が

「僕の知り合いの先生が側弯症で有名な先生を知っていると言ってるんだけど。1度見てもらったら?」と紹介してくれたので、早速紹介状を書いてもらい診察をすることになった。

 

紹介されたその先生は、牛乳瓶の底みたいな大きな眼鏡が印象的なおじいちゃん先生であった。

 おじいちゃん先生はわたしの背中とレントゲンを見るなり、

 

「即手術!!!!!!!」

 

と、でかい声で言い放った。

 呆気にとられていると

 

「君、このままだと老後は寝たきり」

 

と、悲しい未来を宣告された。

 

それから半年くらい準備をして24歳の誕生日の前日に、9時間に及ぶ大手術を受けることになった。背中の側弯を治すべく、背骨をボルトで固定するという手術であった。

 

手術後。高熱と今まで味わったことのない劇痛により私の身体は猛烈に震えていた。尋常じゃないほどガタガタ震えながら担架で運ばれる私に「大丈夫?」と泣きながら声をかけた姉に「大丈夫じゃないから、大丈夫じゃないから」と朦朧としながらも訴えていたことを後から告げられた。

 

手術後1週間くらいすると、侍がよく身につける桶側胴のようなコルセットを風呂に入る時以外はしばらく装着するよう強いられた。

 病院の時は侍ルックでまぁ良い。問題は退院してからだ。肌色の立派な桶側胴とどうやって付き合っていくのかが課題となった。

 

まず服に制限ができた。

桶側胴を服の上からつけて歩く勇気もないので、桶側胴を服の下に装着することにした。そのため妊婦用のワンピースや大きめのTシャツを買って桶側胴が目立たないよう工夫したのだった。

 

また動きにも制限ができ最初は困惑したが、これは人間の適応能力というやつで慣れれば桶側胴を付けても仕事をこなせるようになった。ちなみに仕事には術後2ヶ月程度で復帰した。

すっかり桶側胴に慣れると、桶側胴をつけて筑波まで栗を拾いに出かけるほど元気になった。

 

 半年後。晴れて桶側胴から解放される日がきた。

今までわたしの体を守ってくれた桶側胴。15万円もした桶側胴。

この日からわたしの桶側胴は用済みとなった。

 しかし桶側胴をいろんな複雑な思いから捨てることができず、わたしは3年ほど桶側胴を部屋に飾っていた。

 

そして引っ越しを機に桶側胴をゴミの日に処分することを決めたのだった。

 

さようなら。桶側胴。

 

最後は桶側胴の写真を撮ってかっこよく加工してインスタグラムにアップさせた。

 

 

まぁまぁ大変な手術をしたわたしだったが、今現在は特に不調もなく術後の経過も良好。元気だ。

そういえば数ヶ月前に原っぱで馬とびをした際に、馬が怖いと言われることもなく馬になっても人様に迷惑を与えなくなったようで嬉しかった。

手術をしてよかったと思う。

 

ちなみにインスタグラムのかっこよく加工した桶側胴には6イイネしかつかなかった。

 

朝の好きなおかずは目玉焼きです。

わたしは最近、朝飲みというものを初体験した。


この日のメンバーは私の友人メガネ先輩。メガネ先輩のお知り合いの監督。そしてわたしの3名だった。

メガネ先輩は友人であり飲み友達でもある。特にお互い、コの字の酒場に深い関心があるためよく一緒に調査に出かける仲なのだ。

メガネ先輩のお知り合いの監督は、立石を知り尽くした男といっても過言ではない、言わば立石のプロ、立石マスター、プロフェッショナル立石。
簡単に言うと、よく立石で朝から飲んでいるおじさんなのだが、今度の土曜日も朝飲みに出かけるというので、興味を持ったメガネ先輩が便乗。そしてさらにわたしも便乗。という経緯からこの日の朝飲みの会が発足されたのであった。

この日の朝は早かった。
8時45分立石集合。立石駅改札から出て右の列に並べ!というミッションが課せられ、わたしは懸命に立石へと向かっていた。
しかし、途中電車の乗り間違いを2度もしてしまい、さらに焦りと緊張のせいか腹を下してトイレに立ち寄った結果、結局30分も遅刻するという大失態を犯してしまったのだった。


「あー来た来た!おーい!」

遅れたわたしを優しく迎えてくれる仲間。もちろん、メガネ先輩も監督も時間通りに来ていた。
おそらくメガネ先輩は内心キレていたと思うが、わたしに甘いメガネ先輩は何故今日8時45分にこだわっていたのか、30分も遅刻をしている私に説明をしてくれた。

今回朝飲みの舞台となる『宇ち多゛』は創業昭和21年。70年も続くもつ焼きの名店だ。その美味しさから土曜日は開店の10時から始まって13時頃には売り切れのため閉店するという大人気店なのだ。
さらに開店と同時になくなるレアなメニューもあるので、開店と同時に入りたい!という熱心なファンも多く、8時くらいから列ができるのだとか。また後から来た人が待ち合わせということで入り込むことはできないシステムらしく、その場合は全員後ろから並びなおさないといけないらしい。
そして9時頃になると席ぎめを客の間で話し合われ、座りたい席によって並び方が変わるのだ。単純に一列に並べばいいわけではなく、自分の席にスムーズに座れるよう、計算して並ばなければならない。
また注文も店内には「もつ焼き」としかメニューには書いていないので、どの部位を、なんの味で、どのくらいの焼き加減でをスラスラと言えないとダメらしい。例)シロたれよく焼き

とにかく細かいルールが沢山あるため、
初見にはなかなかハードルの高い店だということを説明してくれた。
細かいルールのお陰で、宇ち多゛攻略法の記事がネットにあるくらいなのだ。

それなのに30分も遅刻したわたしをこいつは見逃してやっておくれよと、立石マスターa.k.a監督が交渉してくれ、監督が言うなら...という感じでなんとか宇ち多゛入が認められた次第であった。すみませんねみなさん。

しかし、今日は3人のはずだと思っていたのだが、輪の中には他におじさんが2名おり、ニコニコしながら話の一部始終を聞いていた。

はて?というわたしの顔を察してくれたのか、おじさん2人が自己紹介をしてくれたのだが、宇ち多゛システムもよく理解できずにパニックになっていたわたしは2人の名前を瞬時に忘れてしまったのであった。

しかし、そのうちの1人のおじさんはちょっと一味違う雰囲気でその時は名前を覚えられなかったのだが、なんか気になるおじさんということで注目をしていた。
その訳は、渋谷直角氏の漫画「デザイナー渋井直人の休日」にでてくるおじさんがそのまま現れたような人だったからだ。
上質なダッフルコート、ほどよく細めのパンツ、足元は手入れをされたコンバース、白髪の髪にはお洒落な水兵帽。そして素敵なメガネをかけていた。

わたしは渋谷直角氏の観察力を尊敬した。
業界臭漂うおじさん=上質なダッフルコートは方程式として覚えて良いということを実感したのだった。

客同士の場所決めが決まると、近くであれば列から離れて出かけても良い。との決まりがあるようで、上質なダッフルおじさんは「僕はコーヒーを買いにいってきます。」と優雅に列を離れていった。

我々が列を作っている場所は、立石のアーケードの中であった。このアーケードがまた昭和の雰囲気が漂い、良い味を醸し出している。
アーケード内にある宇ち多゛の隣のお惣菜屋のおじさんは、朝からせっせと蒟蒻に隠し包丁を入れていた。
アーケード内を掃除するおじさんは、カラフルな地面を入念に清掃し、店の入り口のステップを持ち上げその下まで掃除をしていた。丁寧に仕事に打ち込むその姿に心が打たれた。
一方、早朝から列をつくる暇なおじさんたちは、まだかまだかと目を輝かせて待っていたのだった。
働くおじさん。休暇のおじさん。どっちのおじさんの姿もなんかいい。立石はいい町だと思った。

コーヒーを買いに行ったダッフルおじさんが戻ってきた頃、宇ち多゛の開店まであと10分となった。
すると今まで無音だったアーケード内に、スーパーのBGMのような躍動感ある音楽が鳴り始めたのだった。妙な音楽にテンションが上がる。

そしてここからさらにつっこんだ席決めが始まった。座る場所が決まったテーブルのどの位置に座るのかという会議になり、

「君たちは端の席が良いので、あなたが列の先頭に行きなさい。」

と、ダッフルおじさんから指示を受けた。

「そのあとは監督が行って!」

わたしの次に並ぶのは監督と決まった。ダッフルおじさんはコーヒーを持って帰ってきたと思ったらテキパキと仕切りを始めたのだった。

「僕はメガネちゃんと後から行くから。」

この決め事の詳細は謎だが、ダッフルおじさんはわたしよりメガネ先輩がお気に入りというのはわかった。

「あ!大将がトイレに行った!」

立石アーケード内の店舗には店内にトイレがないため、トイレに行く場合はアーケード内にある公衆便所に行く必要がある。
 
大将がトイレに行ったら、間も無く宇ち多゛オープンのサインらしい。

トボトボと歩く大将の後ろ姿が見えなくなった次の瞬間、

ガチャーンと小さな扉2つが一斉に開いた。

「入れーーー!!!!!」

なんだかよくわからないまま、先頭のわたしは後ろから押し込まれるようにして店へと入り、めちゃめちゃ狭い席の1番端席へと座った。その横に監督、そしておじさん、おじさん、おじさん!
長細い木の机の向かい側にはメガネ先輩、そしてその横にダッフルおじさん、そしておじさん、おじさん、おじさん。

座席について今までの説明の意味がやっとわかった。

基本的に宇ち多゛には長細い机しかないのだ。
そこを家族のようにみんなで囲んで飲み食いするというような形だった。わたしの席は約10名のパーティーを組んで座ったという訳である。

トイレに立つには一度全員に立ってもらわないとならないほど座席は狭く、狭すぎてコートも脱ぐことができなかった。
着席するや否や、店員さんが一升瓶を持って各テーブルを周り、座席にあらかじめ用意されているコップに焼酎をなみなみと注いでくれた。なみなみと注がれた焼酎はそのままコップの受け皿にしたたり落ち、そして仕上げに梅のシロップがほんのり注がれる。これが宇ち多゛で人気な飲み物「梅割り」なのだ。

食べ物もじゃんじゃん運ばれてくる。どうやら並んでいる時に注文の受付が始まっていたようで、監督やダッフルおじさんが注文しておいてくれたオススメメニューが机に並べられた。
その中でもタン刺がめちゃめちゃ美味しかった。宇ち多゛のタン刺しはローストビーフより美味しい!これはわたしの感想である。

周りのおじさんたちは好みの焼き物をスラスラとスピーディに注文していた。その姿は呪文を唱えているようでなんだかかっこよかった。

メガネ先輩とわたしの宇ち多゛初心者組は結局難易度が高くて注文できなかったのだが、おじさんたちから、これもどうぞあれもどうぞと回ってくる食べ物を食べてどれも美味い!と喜んでいた。しかもこのお店の料理は全て1皿200円という驚きの値段設定なのだ。

食べてる途中にも関わらず、また来よう、絶対来ようと次の来店を考えてしまう。
宇ち多゛はそんな素晴らしい店であった。

最初は皆、美味い美味いとだけ呟いてほぼ会話をせずにいたのだが、そこそこお腹が一杯になってくると話が弾むようになった。
あの人はお寿司屋さんでこれからランチ営業があるんだよとか、からしは持ち込んでもいいけど、もつ焼きに直接つけて皿は汚さないようにするんだよとか、南千住もイケてるよねとか...

そんなゆるい世間話で盛り上がる中、
急にダッフルおじさんが最近ハマっているドラマの話をしだした。

仲里依紗が出ているドラマを楽しみに見ていて、あのドラマはすごい!という話であった。
あーそうなんですかー!
見てないなーと心の中で思いながら話を聞いていると、
「ここまで最近のドラマはやるのかってほどすっごいんだよね。仲里依紗の夫が浮気する話なんだけどね。その浮気相手がいいだよー。足開いて××××××シーンがもう最高で!それを朝起きてから見て、×××××してからじゃない活動できないんだよね。」
もつ焼きの注文と同じくらいに突然スラスラと卑猥な話をするダッフルおじさんの表情は良い笑顔であった。
10人でゆるやかに囲んでいた朝食の時間。
ダッフルおじさんは突然、朝の好きなおかずの話を語り出したのであった。
しかもダッフルおじさんと目があってしまった。どうしよう。。わたしは下ネタが苦手なのだ。
どうしよう。。わたしは目玉焼きが好きですとか言ってみようか。。

幸いなことに、ダッフルおじさんを除く9人の誰も口を開かなかったので、わたしも黙っていることにした。そのかわりニコニコと笑顔だけは絶やさないよう努めた。

するとダッフルおじさん。今度は
「奥さんが隣に座っていても横の女性を口説いてしまって怒られる。」という話になった。
ダッフルおじさん、この話題ならいけるかも!というこで、はいはいと相槌を打つわたしと裏腹に「最低だ。」とメガネ先輩は小さい声で呟いていた。

「だから奥さんに言われるだよね。頼むから既婚者と彼氏がいる子を口説かないでって。」
はいはい。と聞くわたしの前で、「当たり前だよ。」とメガネ先輩が小さい声で呟いた。

ここでわたしはあることに気づいた。奥さんの懐の広さに!
「でも奥さん優しいですよ!だってフリーの子は口説いてもいいってことですもんね!」
今度は自分の意見を発言できたぞ!と喜ぶわたしの一方で「その考え最低だな。」とメガネ先輩は普通の声で私に言った。

「それはしない。僕、人のものじゃないと燃えないから。」
そうきたか。と思うわたしの横でメガネ先輩はもう何も言わなかった。

ノリノリで話をするダッフルおじさんの勢いは止まらない様子だった。
周りのおじさんは気まずいからか聞こえないフリをしているようだった。
しかし宇ち多゛の店員が現れて、喋ってばかりいないで早く飲んでくださいよ!とダッフルおじさんの勢いを阻止し始めたのだった。
 
ダッフルおじさんは、はーい。とニコニコしながら残っているお酒を飲み始めた。

開店から1時間が経つ頃、「ではそろそろ。」と移動の準備が始まった。立石のマナーとして1つの店に長居をしないというのが暗黙のルールであるようであった。特に宇ち多゛のような人気店は、外で待っている人への配慮からもそうしているようであった。非常に粋な飲み方である。

一緒に入った10人はほぼ同じタイミングで店を後にした。
だけどみんなその後は各々好きな店へとてんでばらばらに消えて行ってしまった。それはダッフルおじさんも然り。

「僕、メガネちゃんみたいな子タイプなんだよね。」
最後はちゃんとメガネちゃんを口説いてダッフルおじさんは消えていったのだった。


我々3人は宇ち多゛の後に7件ハシゴをすることになり、立石の町には夜の10時まで入り浸ることになったのだった。
こうして思い出深い人生初の朝飲みの会は幕を閉じた。7軒目の餃子屋でわたしは生きてて良かったと連呼していたことをなんとなく覚えている。
そのくらい立石の町が楽しかったので、思わずブログに書いてしまった次第である!

しかしどうか。メガネ先輩には見つからないでいてほしい。

このブログを彼女が読んだらキレるであろう。
でもわたしに甘いメガネ先輩だから、たぶん見て見ぬふりをしてくれる気もする。