コミニュケーション能力とは

小学校に入学してわりとすぐに、小学6年生と1年生で遠足に行く行事があった。小学校から少し離れた公園まで、小学6年生のお兄さんお姉さんらと手を繋いで歩いて行くのだが、この行事がとても憂鬱だった。まだクラスのみんなとも馴染めていないのに教師が適当に決めたお姉さんとペアを組まされ、しかも手を繋いで公園まで歩いて行かなければならない。人見知りの私はそれをとても苦痛に感じていた。遠足当日は終始俯き、私の表情は暗かった。お姉さんに何か聞かれても声を発さず、首を振ったり傾けたりしてコミニュケーションをとっていた。楽しい遠足の雰囲気とは程遠い淀んだ空気の中で、突然お姉さんがこう尋ねてくれた。「ねぇ、さとみこんこんちゃんはツツジっていう?ツツジっていう?」歩道に沿って鮮やかに咲いていたツツジ。お姉さんは私にツツジのイントネーションを聞いてくれたのだ。これには首を振って答えるわけにもいかないので「ツツジ」とつみれと同じイントネーションで返事をした。「ツツジかぁ。私もツツジ」お姉さんもカラスではなくツミレのイントネーションだと教えてくれた。幼いながらにお姉さんが私に気を使ってくれていることはわかっていたものの、だからといって気楽に話せる訳でもなくその後も私は言葉を発しなかった。

気まずい遠足をどうにか乗り越え、小学校に到着した。校庭に座らされ先生の話をききながらやれやれと思っていると「下校は好きなお兄さんお姉さん達と一緒に帰りましょう」先生はニコニコしながらそう言って話を終えたのだった。私は青ざめた。好きなお兄さんもお姉さんもいないし、私のこと好きなお兄さんもお姉さんもいないだろう。先生の言葉を聞いて周りは一斉に郡をなした。「ちょっと私は内田くんと帰るんだから」ツミレのイントネーションのツツジのお姉さんは私をスルーして他の誰かと内田くんを取り合っている様子であった。内田くんの顔を見てみるとはじける笑顔でお姉さんたちに手を引かれていた。私は誰かに声をかける勇気もなく声をかけられることもなく、夕方の校庭で立ち竦んでいた。みんながどんどんグループを組んで笑顔で帰っていく中で、自分はあぶれてしまった者ということを認識した。そうして小学1年生の私は内田くんの笑顔を思い出しながら悟ったのである。社会生活においてコミニュケーション能力っていうもんは大事なんだと。

 内向的であった性格が随分表向きになったのは高校を卒業したあたりであった。ツツジの苦い経験を胸に生きてきた私は「頑張ろう表向き」をスローガンに夜中まで外出し、アニマル柄の服を好み、家族からはターニャと呼ばれ(のだめカンタービレ参照)人前でお立ち台に登って踊りを踊るようになるまでに成長した。

このような経験から「人前」には慣れたものの、人と話をして「コミニュケーションをとる」ことに関しては未だ苦戦をしていた。人との会話をするのに冷や汗をかきながら話をし、話が終わると疲労感でぐったりしていた。

人との会話に苦手意識が働くのはなんでなのか。この答えが判明したのは割と最近だった。きっかけはオンライン英会話だった。日本語での会話もまともにできない私がご近所のインド人家族と仲良くなりたいがために始めたオンライン英会話。週1回たった15分だけという短い時間ではあるが、英語の上手い下手はさておき英会話のキャッチボールは続くようになってきた。レッスンが円滑に進むポイントを私は教師に関心を持って質問をいくつか準備しておくことと認識している。そしてもう一つ気が付いたことがある。これって会話の基本ではないかと。日本語だろうが英語だろうが、なんで人と会話をするのかというとその人のことを知るために言葉という便利なツールがあるんだということを再認識したのだ。

今まで冷や汗をかきながら一生懸命会話をしていた私だったが、話すことに囚われすぎて長いこと本質を見失っていたことに気がついたのであった。

もしあの日の徒歩遠足に戻れるのであれば、「しめじって言いますか?しめじって言いますか」としめじのイントネーションをツツジのお姉さんに聞いてみたい。そうすればお姉さんは内田くんではなく私と一緒に帰ってくれたのかもしれない。