私には特発性側弯症という持病がある。どんな病気かというと背骨が成長の過程でぐにゃぐにゃと曲がってしまう病気なのだが、痛みもなかったので全く気がつかずに生活をしていた。
そんなある日。中学校3年生の私は友人と馬跳びをしながら帰ることにした。
まず私から馬を飛んだ。馬になった友人の背中に手をつけてピョン♪と飛んだ。
今度は私が馬になって友人が私の背中に手をつけてピョン♪と飛んだ次の瞬間
「ギャーーーーー!」
友人が何故か叫んだのであった。馬だった私は屈んでいたので何が起きたかわからず、急いで顔を上げて友人を見た。
すると友人は地面に手と膝をついたまま停止していた。どうやら着地に失敗したようである。
「だ、大丈夫?」
と、友人に声をかけ手を差し伸べた私に、友人は強い眼光で私を見つめこう言い放った。
「ねぇ、背中おかしいよ」
「でこぼこしていてうまく飛べない」
「あなたの馬は怖い」
馬が怖いって....え?
それ以来その友人は私と馬跳びをして帰ってくれなくなった。
私は大変ショックを受け、私の馬が怖いと言われた事実を家に帰って報告した。
両親も娘の馬が怖いという事実に驚き
「ちょっと馬になってごらんなさい」
と事実確認を行った。
「たしかに背中がこんもりしている....」
側弯症は個人差もあるのだが横への変形だけでなく前後にもねじれることがある。そのため背中を曲げたときに骨がもりあがり、その結果「馬が怖い」に繋がったのである。
こうして中学校3年の時にようやく背骨の変形に気がついた私は、整形外科の診察を受けにいったのであった。
「特発性側弯症のようですね。原因は不明です。42度の変形がありますね」
そう言って、医師は私と付き添いの母に側弯症についてかかれた紙を渡した。
そこには40度以上の側弯症は1000人に3人程度の確率でなる病気と書かれていた。
なんだか大変そうな病気じゃないか。もっといい事で当選したかった。なんでよりによって馬が怖い病気に...
しかし、なんだか珍しい病気の宣告をされても馬跳びの馬に不向きということ以外に特に生活に支障がなかったため、私も親もそんなに気にはしなかった。
ある日、母が実は娘がそんな病気らしい。と何気なく親戚に電話で話をすると、その親戚が泣き出すという事件が起きた。
「評判のいい気功の先生を知ってるからそこに通ってみなさい!」
涙ながらに訴えられたら行かないわけにもいかず、私は気功の診察に通院することになった。
しかしその評判の良い先生が水曜の朝9時からではないと診察をしなかったので、気功に行ってから中学校に登校するしかなく毎週水曜日は遅刻の日となってしまった。
気功では何をしたかというと、手を背中につけるかつけないかの寸止めくらいで先生が「ブシッ!ブシッ!」と言って背中に気を送るという診察を受けた。だいたい15分くらい背中に気を送ってもらっていた。
どうしても水曜日の診察に行くことができなかった時は、土曜日の先生にお願いをしたこともあった。
その時の先生は「ヒョッ!ヒョッ!」と言いながらゆるやかに背中に気を送ってくれた。いつもの先生はパワーみなぎる感じでスピード感もあるけど、この先生はなんだかマイルドであった。気功も先生によってスタイルが違うことを学んだ。
そして半年後の背骨の検診。果たして気功の効果のほどは?
「43度。特に変化ありませんね」
....。
なんなら1度増えている。
わたしは気功に通うのをやめた。
その後は特にこれといって何もせずに過ごしていたのだが、年に一回程度背骨の検診だけは真面目に通っていた。
しかし、いつも言われることは
「43度。変化ありません」
であった。
この検診はいつまで続くのだろうか。
23歳になった時に
「先生、ちなみ私は手術をしなくていいんですか?もうひたすら経過を見ていけばいいんですか?」
と今後の方針を尋ねた。
すると
「君は40度超えてるから手術適応なんだよね。まぁ、するかしないかでいったら...手術した方がいいんじゃない?」
クソが.....
私は8年間経過を見てくれた先生を一気に信用できなくなり、他の病院を探すことを決めた。
そんな私の状況を知った職場の医院長が
「僕の知り合いの先生が側弯症で有名な先生を知っていると言ってるんだけど。1度見てもらったら?」と紹介してくれたので、早速紹介状を書いてもらい診察をすることになった。
紹介されたその先生は、牛乳瓶の底みたいな大きな眼鏡が印象的なおじいちゃん先生であった。
おじいちゃん先生はわたしの背中とレントゲンを見るなり、
「即手術!!!!!!!」
と、でかい声で言い放った。
呆気にとられていると
「君、このままだと老後は寝たきり」
と、悲しい未来を宣告された。
それから半年くらい準備をして24歳の誕生日の前日に、9時間に及ぶ大手術を受けることになった。背中の側弯を治すべく、背骨をボルトで固定するという手術であった。
手術後。高熱と今まで味わったことのない劇痛により私の身体は猛烈に震えていた。尋常じゃないほどガタガタ震えながら担架で運ばれる私に「大丈夫?」と泣きながら声をかけた姉に「大丈夫じゃないから、大丈夫じゃないから」と朦朧としながらも訴えていたことを後から告げられた。
手術後1週間くらいすると、侍がよく身につける桶側胴のようなコルセットを風呂に入る時以外はしばらく装着するよう強いられた。
病院の時は侍ルックでまぁ良い。問題は退院してからだ。肌色の立派な桶側胴とどうやって付き合っていくのかが課題となった。
まず服に制限ができた。
桶側胴を服の上からつけて歩く勇気もないので、桶側胴を服の下に装着することにした。そのため妊婦用のワンピースや大きめのTシャツを買って桶側胴が目立たないよう工夫したのだった。
また動きにも制限ができ最初は困惑したが、これは人間の適応能力というやつで慣れれば桶側胴を付けても仕事をこなせるようになった。ちなみに仕事には術後2ヶ月程度で復帰した。
すっかり桶側胴に慣れると、桶側胴をつけて筑波まで栗を拾いに出かけるほど元気になった。
半年後。晴れて桶側胴から解放される日がきた。
今までわたしの体を守ってくれた桶側胴。15万円もした桶側胴。
この日からわたしの桶側胴は用済みとなった。
しかし桶側胴をいろんな複雑な思いから捨てることができず、わたしは3年ほど桶側胴を部屋に飾っていた。
そして引っ越しを機に桶側胴をゴミの日に処分することを決めたのだった。
さようなら。桶側胴。
最後は桶側胴の写真を撮ってかっこよく加工してインスタグラムにアップさせた。
まぁまぁ大変な手術をしたわたしだったが、今現在は特に不調もなく術後の経過も良好。元気だ。
そういえば数ヶ月前に原っぱで馬とびをした際に、馬が怖いと言われることもなく馬になっても人様に迷惑を与えなくなったようで嬉しかった。
手術をしてよかったと思う。
ちなみにインスタグラムのかっこよく加工した桶側胴には6イイネしかつかなかった。