ボタボタ泣きたい

感情が欠落しているんじゃないかと思い始めたのは小学生の頃だった。友人の転校、卒業式、タイタニック...みんなが泣いている時に私はだいたい泣いていない。卒業式で泣かないと冷たい人って言われそう。斉藤由貴のこの歌を知る前から私も同じことを思っていた。だから知恵のついた中学生のころからは冷たい人と思われないようにみんなが泣いている時に私は俯いて悲しい顔をすることにした。私だって悲しい。私だって泣いているあなたより悲しんでいるよと思いながら眉間にシワを寄せて俯いていた。

私も感動して泣きたい。感動して泣く人を妬ましいとさえ思ってしまう。感動して泣く人は可愛い。それに感動して泣く人はいい人って言われそう。というかそういう認識。斉藤由貴もそうだねと言ってくれると思う。

だけどそんな私にも胸中の琴線に触れて涙を流したことがある。志村けんの悲しい音楽の流れるコントで泣いた。のちにシリアス無言劇という名であることを知るこのコントは、だいたい悲しい結末でだいたい人が死んでいた。

その日もいつものように家族でテレビを囲んでいたらシリアス無言劇がはじまった。夫役の志村けんとその妻の石野陽子による演技が、定番の悲しい音楽の中進行していった。この話、このままいくと多分死ぬな。小さい私もオチというものを理解しはじめたため、言葉はなくとも妻の石野陽子が死ぬことが予測できた。そして予想通り死んだ。ようこちゃんが死んだ。わたしは石野陽子の死が悲しくて泣いた。ほらみろよと。小さい私はオチのほかにも常識というのも理解しはじめたため、志村けんの番組で泣くのは違うということも理解していた。こいつ志村けんを見て泣いているよ。家族にバカにされたくない一心で「背中がかゆい」と言いながら志村けんの番組が流れる食卓でワンワン泣いた。

あとはハチ公物語を見て泣いたくらいしか感動して泣いた記憶がない。

卒業式も息子の出産でも泣かず、結婚式の花嫁の手紙にいたっては、シーンとした空気と照れに耐えきれず半笑いで手紙を読んだ。

感動したことを表現したい。感動を、言葉で語ることもできないし、音楽で表すこともできないし、踊って表現なんてまず無理だし、じゃあ涙くらい流させてよと思うのに泣くこともできず、私はどうやって表現すればいいのだろうか。

泣きながら読んだ、震えるほど泣いた、ボタボタ泣いた、全米が泣いた、泣いた泣いたという文面をみるたびに羨ましさと妬ましさで心が埋もれ背中がかゆくなる。