はじめての子育て

「子供ができたら終わり」

イヴァンナにそう言われたと友人が笑いながら言った。イヴァンナさんは友人のセルビア人の友達だ。私はイヴァンナさんを直接知らないが、友人の友人であるイヴァンナさんのことを少しばかり知っている。イヴァンナさんが金髪であること、イヴァンナさんがキャリアウーマンなこと、イヴァンナさんには小学生の娘さんがいること、友人とはたまたまスタバで知り合ったこと...など。

そんなイヴァンナさんが「子供ができたら終わり」と友人に言ったらしい。身も蓋もないこと言うんだなぁと果物がたくさん乗ったパンケーキを食べながら私はその話を聞いていた。独身二人の我々はちょうどブームであったパンケーキでも食べてみようかとわざわざ朝から代官山までやってきて朝食にパンケーキを食べていたのだ。私ら優雅だねと言いながらキラキラ映えるパンケーキをナイフとフォークで崩していった。イヴァンナさんと友人は英語で会話をしている。「子供ができたら終わり」この言葉も英語だからこのようなストレートな訳になったのかもしれないし、言葉通りのことをイヴァンナさんが感じたのかもしれない。どちらにしても、そんなこと言うんもんじゃないよというのがこの話の感想だった。

 

 

「ちょっと待ってねぇ」

朝コーヒーを飲むことは毎日の日課だ。もう何年もそうしている。朝コーヒーを飲むことは朝顔を洗うことと一緒だ。飲まないと気持ちが悪い。カフェイン依存症というわけではない。カフェインレスのコーヒーを飲むようになってから、しばらく経っている。朝コーヒーを飲むという習慣が私には大事なことなのだ。市販のペーパードリップコーヒーにお湯を少しずつ、溢れないように注ぐ。実家のリビングからギャーギャー鳴き声がする。生後1ヶ月も満たない我が子である。私はコーヒーを入れてパンを食べたいのだ。コーヒーを入れてパンを食べながら朝ドラを見たいのだ。早くしないと朝ドラに間に合わない。すずちゃんに間に合わない。

「ちょっと待ってねぇ」

この言葉を3回程使い、どうにか広瀬すず主役の朝ドラに朝食準備を間に合わせようとした。が、鳴き声は「ちょっと待ってねぇ」を使う度にどんどん大きくなっていく。4回目はさすがに使えず、コーヒーにお湯を注ぐことを中断し我が子のもとへ駆け寄り抱き上げた。そうこうしているうちに広瀬すずが画面上に現れる。我が子を抱きかかえたまますずちゃんをみる。横に揺れたり縦に揺れたりしながらすずちゃんをみる。隙を見てパンをかじる。我が子が寝る様子はない。すずちゃんが終わってからも寝る様子はなく、子を抱き抱えながらだらだらとパンをかじる。ようやっと抱き抱えられた我が子が眠りにつく。起さないようにゆっくり寝床に寝かす。やれやれとキッチンに向かうと中途半端な状態のコーヒーが冷えきってカップの中に溜まっている。仕方なく再度湯を湧かし、冷えたコーヒーの入ったカップに湯を注いでいく。出来上がったヌルいコーヒーを立ったまま飲んで美味しくないと呟いた。

風呂に入っていても「ギャー」と言えば中断、大便をしていても「ギャー」と言えば中断、うんこくらいゆっくりさせてよと言っても子には通じない。

 植木鉢やゴミネットなどで賑わっていた私のiPhoneの写真フォルダーがあっという間に我が子で埋め尽くされていく。朝起きてから夜眠りにつくまで考えることは我が子。お酒を飲みに出かけることが楽しみだったはずなのに現在の楽しみは15分間の朝ドラのすずちゃん。おっぱいさん。これは私の今の呼び名である。家族からも自分でもおっぱいさんと呼んでいる。あれ私ってこんなんだったけ?

授乳オムツ授乳オムツ授乳抱っこオムツオムツ抱っこ授乳授乳授乳24時間エンドレス夜も眠れない。 

産後の私はすぐにカッとなってキレたりすぐに泣いたり突然震えることもあった。

 

「子供ができたら終わり」

金髪のイヴァンナさんが言っている。イヴァンナさん、たしかにそうかもしれない。私にはもしかしたら早かったのかもしれない。まだ子供を持つことよりも朝にパンケーキを食べに出かけていた方がよかったのだろうか。

子が誕生して2週間後。私は慣れないベビーカーを病院内で暴走させていた。ベビーカーを押しながらエスカレーターに乗ろうとし付き添いの母にひどく怒られていた。今日は2週間検診のため小児科を訪れた。我が子の健康チェックの他母親である私の状態の確認もあった。小児科に到着してまず問診を記入した。子の様子を記入し、自分の問診に答えていった。問診には笑うことができたかとか、物事を楽しみにして待ったかとか、はっきりとした理由もないのに不安になったかとか、そんなことが書いてあった。楽しみなことなんて特別ないし、あまり笑っていないし、何もかも不安だしよく泣いてる。一つ一つ正直に回答し、受付に提出した。

椅子に座って待機していると

「ママ、大丈夫ですか〜」

と腑抜けた声で呼びかけられた。

顔を上げるとそこには若い看護師がバインダーを持って立っており、眉毛を八の字にして私を見ている。大丈夫ってなにが?と思いながらも、大丈夫です。と答えた。

「子育てで不安なこととかあるんですか〜」

どうやら先程の問診のことを聞いているらしい。まぁ、普通に子育てって不安ですよね。

と俯きながら返答した。

「そうかそうか〜」

と相変わらず脱力した声で喋るその看護師はそう言って、再び診察室へと戻っていった。

それから時期にわが子の名前が呼ばれ診察室に通された。子供の発育のチェックの後、女医から「お母さん、何か心配なこととかあるんですか」と尋ねられた。あぁさっきの問診のことかと思い、先程の看護師にも言ったようなことを再度女医にも伝えた。すると「専門のカウンセラーもいますから本日相談します?」と聞かれた。子供を待たせるのも可愛そうだから結構ですと答えると「じゃあ保健師とも連携をとることになっているんで連絡しますね」と告げられた。

そうして思った。この女医は直接言わないけど、私はあの問診の結果だとたぶん鬱なんだろうと。

子供ができ、私は産後鬱になったのか。子供は可愛い。なのに私は参ってしまったのだろうか。子供が可哀想。そんなことを思い夜な夜なまた泣くのであった。

 

それから1ヶ月後。里帰りが終了して家族3人の生活がスタートした。我が子は生誕してから1ヶ月半経った。相変わらず心配なことばかりではあるが、大切な我が子と楽しい生活が送れるよう奮闘することで、心配に思う気持ちは以前よりも薄れてきたように思う。自宅に戻ってからも、すずちゃんを見ながら縦に揺れたり横に揺れたりしている。ぐずる時は子供と同じ名前のアーティストのPVを見せて抱きながら踊る。それでもダメなときはサンダーキャットのライブ映像を見ながら歌って踊る。だいたいそれで寝る。それが最近のルーティンである。

朝コーヒーを飲むのは時間がないのでもうやめた。そのかわり子が昼寝をした隙にコーヒーを淹れることにした。夫に内緒で買う98円のティラミスをお供に、コーヒーを飲みながらブログを書いたり、ちまちま映画を見たり本を読んだりする時間は心地良い。あんなにこだわっていた習慣はいとも簡単に崩れ、また新しい形となって日常へと浸透している。

朝にパンケーキを食べにでかけたり、ゆっくり湯船に浸かったり、ちょっと遊びに行ってくると言って新幹線で名古屋にでかけたり、酔っ払って知らない酔っ払いに水を買ってあげるようなことはしばらく休業である。

子供ができたら終わり。確かに色々終わった。

だけど子供ができたことは新たな日常のはじまりでもあることに気がついたのであった。