はじめての出産

子が生まれた。

なかなかお腹から出てこなかった我が子。

あんまりにも出てくる様子がなかったため、入院をして私の誕生日にお股にバルーンを入れて出てくるように促す予定であったのだが、願いが通じたのか入院の前日の夜に陣痛が始まりお誕生日バルーンは回避されたのであった。

陣痛っていうのはどんな痛みなのかとドキドキしていたのだが、本陣痛は想像の350倍くらいの激痛であった。鼻からスイカなんて例えはわかりにくいし的確ではないように思う。後日姉から「北斗晶が出産の痛みをダンプカーで何回も腹の上を轢かれる感じと言ってたよ」と聞いたが、こちらの例えの方が近いように思う。

出産前、ぺこ&りゅうちぇるのぺこちゃんの出産のブログに記していた「出産の時はお腹の子供も頑張っているから痛いって言わないと決めていた」という内容に感銘し「わたしも痛いと言わないぞ!」と心に決めていたのだが、なんてったってダンプカーで何回も轢かれる訳である。分娩中痛いを連呼しまくっていた。たぶん北斗晶も痛いと言っていたと思う。もしかしたらぺこ&りゅうちぇるのぺこちゃんは北斗晶よりも強靭なのかもしれない。

子はなんとか出てこようとしたものの、なかなかいきむ段階まで降りてくることができず、さらに陣痛を誘発する処置が施された。この陣痛促進剤のおかげで痛みが倍増。ダンプカーにさらにブルドーザーが応戦し私の腹の上を交互に轢いたのだった。5時間以上ダンプとブルドーザーに轢かれ、助産師に「これいつまで続きます?私もう無理なんですけど」と弱音を吐くと「あなたも辛いだろうけど子供も辛いんだよ」と厳しめな口調でぺこちゃんと同じようなことを言われ泣く泣く耐えたが、ダンプとブルドーザーに何度も轢かれてるんだから痛いとも無理とも言わない方がおかしいだろう。弱音くらい吐かせてくれよ、そう思った。

耐えに耐え疲れ果てていた母だったが、実は腹の子も我慢の限界だったようで心音が弱くなってしまった。母はどうやらその影響で高血圧症になってしまい分娩室の中にyabaiの空気が漂いはじめたのを感じた。立会い出産に挑んでいた夫は分娩室から出されてしまった。急に周りがソワソワし始め、医師や助産師らが「いけるか?いけるんじゃないか?いけそうだなぁ」とブツブツ呟いていたかと思うと「じゃあいきんでみましょう!」と急にいきみに流れがシフト。一度退出させられた夫も再び登場し、そーれそーれと分娩室中一致団結。なかなかいきみのセンスがあった私、急にハイピッチで動き出した我が子、とにかく早く出したい医療人の連携でいきんでから割とすぐに子が誕生した。

生まれた瞬間はなんとも言えない感動を味わうことができると数多くの経験者から聞いていたが「終わった」これが私の感想であった。ダンプとブルドーザーの襲撃からやっと解放された。終わったと感じながら助産師に抱かれて忙しくしている我が子をぼーっと目で追っていた。

子の心音は弱くなるわ母は高血圧症になるわで母子ともに危険な状態となったため、今回の出産では急遽吸引分娩という方法が施された。わたしが高血圧症になった訳は仮死状態になった我が子を救おうと血圧をガンガンあげて救おうとしたことが原因のようだった。痛い痛いと弱音を吐いて助産師に叱咤されるようなヘタレ根性の私だけど、私の体はしっかり子を守ろうとする母の役目を果たしていたことに妙に感動した。

それから分娩室で軽食が出されたが、食べる元気もなくウィダーインゼリーを細々と吸引していると、間も無くしてお股に強い痛みを感じるようになった。看護師にその旨を訴えると産後の痛みだろうということでロキソニンが処方されたが、なかなか強い痛みに痛い痛いと騒いでいた。

薬が効いて痛みが少し落ち着いたころ、股の確認をされた。するとまた分娩室がザワザワし始めた。どうやら私の出血量が異常な様子である。一度去っていった医師が再び現れ内診をすると「手術が必要です」とのことであった。難産のあとに緊急手術が執り行われることとなったのだ。

わたしは泣いた。マジかよと思って泣いた。しかし、なんだかよくわからないがこのままだと股の出血多量で死ぬ。もう手術を受けるしかなかった。今日から私は立派な母なのだ。子のためにも死ぬわけにはいかない。

貧血症状でカタカタ震えながらたくさんの書面にサインをしていった。どこの股から血が出てるのか確認するため、わたしは日付が変わろうとする時間から全身麻酔をして手術に挑んだのであった。

 

目がさめると担架に乗せられて運ばれているところだった。意識がまだ朦朧としているのが自分でもわかった。手は痺れて感覚がない。「大丈夫?」声がする方に目を向けてみると心配そうな夫の顔が見えた。手術は終わった。無事っぽいぞということがわかった。

担架に乗せられたわたしは病室に運ばれた。担架からベットに移され、わたしの尿管と腕には管が繋がっていた。時計を見ると日付を跨いでいる。今日はわたしの誕生日である。24歳の誕生日、わたしは沢山の管をつけて病室で迎えた。その時二度と病室で誕生日は迎えないと決意したはずだったのに、32歳の誕生日もまた管をつけて病室で迎えてしまった。

しかし今回は夫がそばにいて、別室には数時間前に誕生日を迎えた我が子も一緒である。心強い誕生日であった。

「撮って」

手術後の病室で夫に記念撮影を依頼した。そうして向けられた携帯に管をぶら下げた腕を上げ、私はダブルピースをしたのだった。