ヨガ教室に通っていた

20代の頃これだという趣味を見つけたくて様々な習い事にお金をつぎ込んでは飽きてやめてきたのだが、ヨガ教室もそのうちの一つであった。

仕事終わりに職場から走って3分ほどのヨガスタジオに直行し、ヨガに励んで帰宅するというイケイケOLみたいなことを1年半もやっていた22〜23歳の頃のわたし。ゆくゆくはインストラクターの資格も取ってヨガの講師にもなって平日も休日も多忙で潤いもあって生活力のあるわ・た・し♡になる予定であったが、その夢は実現することもなくヨガ教室を頑張った結果が10年後にブログのネタとして昇華されることになるとは夢にも思っていなかった。人生とはそんなものである。

ヨガはいろんな流派があり、ホットヨガみたいに汗水流してエクササイズするものもあれば、ハードな動きのパワーヨガ、赤ちゃんと一緒にゆるやかに運動するマタニティーヨガやハンモックの上でヨガするハンモックヨガなどいろんなタイプのヨガがある。わたしが通っていたヨガはインターナショナルヨガというヨガのポーズだけではなく精神性を重んじるヨガで、一言でいうと摩訶不思議なヨガに通っていた。何故よくわからないヨガに通っていたかというと、職場から走って3分だったことと意味のわからないことをわかりたいという探究心がそうさせたのであった。

このヨガ教室は少人数制で生徒はわたしの他にOLが一人いるかいないかで、どうやって切り盛りしているのか謎であった。そして5回目のレッスン以降共にレッスンに励んでいたOLとは2度と会うことはなくなり、先生とマンツーマンになった。先生はわたしの5歳くらい年上の女性で、風貌はガリガリのエキゾチックなこけしという感じであった。

ヨガのレッスンは1時間強くらいであった。まずは瞑想から入り精神を統一させる。瞑想を15分から20分くらい行ったあとは、先生の動きに合わせてヨガのポーズを取る。だいたいこれも20分くらい。体をほどよく動かした後は部屋の照明が落とされ、仰向けになって目をつぶる。そうすると先生がタオルケットを静かにかけてくれる。この休息の時間がだいたい15分くらい。そして先生が部屋の照明を再度明るくして5分くらい瞑想をし呼吸を整え終了というのがインターナショナルヨガの大まかな流れであった。

わたしはインストラクターを目指していたので、先生や片岡鶴太郎のようにガリガリになってヨガっぽい体つきになりたかった。だからレッスンの時間は体を動かす運動で全て使い切って欲しかったのだが、インターナショナルヨガとはどうやらそういう考えではないらしい。精神を穏やかに整えることを重んじ、とにかく体と心の声をよく聞きなさい。とエキゾチックこけし先生から言い聞かされた。ヨガのポーズができているのかできていないのかわからず、先生に質問しても「ポーズにこだわらず、体が思うように動かしなさい」と言われるため、できてるのかできてないのか最後までわからぬままポーズをとり続けた。

ポーズに関してはさほど熱心に教えてくれなかったが、先生は私の体の声が聞き取りやすくなるように色々なことをやってくださった。瞑想の時間に良い音の鐘を鳴らしてくれたり、休息の時間にファンファンいう楽器を耳元で叩いてくれたり、音響に気を使って体の声が聞きやすい空間を演出してくれた。瞑想中で目をつぶっているためどんな楽器なのかわからないが、東南アジアを思わせるようなとにかく良い音色の楽器を不定期に鳴らしてくれたのだった。

また先生は自分の体の声にも忠実であった。いつものように休息の時間になり部屋が暗くなった後、先生がタオルケットをかけてくださった。私は目をつぶり自分の体の声を聞いた。しばらくたって私の体の声が聞こえてきた。いつもより休息の時間長くないか?そろそろ電気がついて最後の呼吸を整える瞑想の時間に移る頃だろうに。薄目を開けてちらっと先生を見ると、先生も横になって休息をしている。休息っていうか寝ている。明日も仕事だしここで寝ていないで早く家に帰りたかった。腹も減った。早く起きてくれ。私の体の声がそう叫んでいる。しかし先生はなかなか起きる様子がない。電気をつけようか悩んだが先生の体がもうちょっとと言っている気がして私は先生の休息に付き合った。それから20分くらいたってようやっと先生がむくっと起きて電気がついた。その後いつものように呼吸を整える瞑想を終え、レッスンは終了。「ごめんねちょっと寝ちゃった」とか「時間遅くなっちゃったね」などの声かけは一切なかった。体が思うままにを先生が身をもって示してくれたエピソードである。

インターナショナルヨガは私がイメージしていたヨガのイメージとは随分異なってはいたものの、先生とのマンツーマンレッスンをそれなりに楽しんでいた。

しかし、そんなインターナショナルヨガ教室に変化が起きた。いつものように仕事終わりに走って教室に到着すると、こけし先生の他タンクトップ姿のガタイのいいおじさんが立っていた。

ガタイのいいそのおじさんは新しい生徒であった。普段はラグビーのコーチをしているそうでパフォーマンスの向上のためにヨガを習いだしたそう。そうしてその日からほぼ毎回のレッスンで私はこのおじさんと顔をあわせるようになった。

正直私はこのラグビーのおじさんが嫌で嫌で仕方がなかった。別に何をされたわけではないのだが、存在が嫌だった。肌荒れのひどい武藤敬司みたいなその見た目。嫌だった。身長が低くやたら発達したヒラメ筋も嫌であった。また何かポーズを取るたびに「あー」「はー」と吐息を漏らすところも嫌だった。このおじさんが現れてからというもの、わたしの体の声に耳を傾けると毎度「悪寒」と訴え、例え先生がいくら良い鈴の音を鳴らしてもその声を消し去ることができないほどであった。ラグビーのおじさんにもわたしの体の声が聞こえてしまったのか、おじさんはわたしの横にヨガマットを並べることはなく後ろの方に控えめにマットを敷いていた。しかし私はその配慮も嫌だった。特にダウンドックという尻を突き出すポーズを取る時にはわたしは「あー」とか「はー」とか吐息を漏らすおじさんに向けて尻をつき出さなければならず、横も嫌だけどなんでおじさんは後ろにマットを敷いたのかと思うと悪寒の真骨頂。体の声は悪寒悪寒悪寒悪寒悪寒と叫びまくっていた。

体の声に従ってどうにかラグビーのおじさんとクラスが被らないようにできないかと先生に相談してみようかとも思ったが、決しておじさんは悪い人ではなかったので「おじさんは悪いことをした訳ではないのに可愛そうじゃないだろうか」という私の心の声が体の声に勝ってしまい、結局私は体の声には耳を傾けないようにしておじさんと一緒に半月くらいヨガをすることとなった。

 このように様々な修行を積んできたインターナショナルヨガ教室であったが、お別れの時は急に訪れた。持病の側湾症という背骨の手術を急遽受けることが決まり、仕事も休まざる負えない状況となったため、ヨガ教室も辞めることとなったのだ。

インターナショナルヨガ教室最終日。コケシ先生に急遽手術が決まったこととお世話になった感謝を伝えると、先生はふらっとその場を離れていった。そして戻ってきた先生の手には小さな花束が握られていたのだ。

「これ、今日たまたまいただいた花束なんですけど、さとみこんこんさんにあげます」

先生はそう言って私に小さな花束を渡した。

「え?でもこれ先生がいただいた花束なんじゃ....」

「いいんです。この花はたぶん、そういう運命だったのです」

そう言いながら先生は微笑んだ。

私は若干腑に落ちないような気持ちを感じながら、そういう運命だった花をありがたく受け取った。

「頑張ってくださいね!」

肌荒れのひどい武藤敬司からもエールをもらい2人に見送られながら、私は最後のヨガ教室を後にしたのだった。

 

スレンダーな体を手に入れるために始めたヨガ教室。その目的は達成しなかったものの、ヨガは奥が深く1年半という月日の中で様々なことを学ばさせてもらった。

中でも1番よく分かったことはインターナショナルヨガは私には合わない。これが1年半のヨガ教室の中で身に染みてよくわかったことであった。