薄っぺらい脳

タイのチェンマイを夫と2人で旅行した時の話である。その日はよく晴れて汗をかきながら旧市街をウロウロ歩いていた。すると突然雲行きが怪しくなりポツポツ雨が降り始めた。夫とわたしは慌ててトゥクトゥクに飛び乗ってホテルのある方向へと戻った。今日の予定ではホテルに戻る前にニマンヘミン通り近くにあるアクセサリー屋に立ち寄る目的であったが、外は雨というより大雨。横なぶりの雨がトゥクトゥクの中にも入ってくるほどであった。しかし行きたかった店である。明日は明日の予定があるしできれば今日その店に行きたい。通り雨だろうということで、ニマンヘミン通り付近でトゥクトゥクを降りた。大雨の中を走り、一件のカフェで雨宿りをすることにした。ニマンヘミン通りはお洒落なカフェが多く、代官山や中目黒にあっても違和感のない素敵なカフェが多かった。そんな洒落たカフェでアイスコーヒーを買って屋根のついたテラス席に座った。喫煙家の夫はタバコを吸っていた。わたしは携帯を見たりボーッとしたりしながらテラスで時間を潰していた。雨は一向に止まず、激しい雨音をたてて降り続いている。すると1人の男性が店内から出てきてわたし達の席の前で立ち止まり、一緒に座っていいかとジェスチャーをした。どうやらテラス席でタバコを吸いたいらしい。わたしたちもどうぞのジェスチャーで彼を迎えた。

「Japan?」と彼はタバコに火をつけながら私たちに尋ねた。得意げに「yeah!」と笑顔で返し、あなたの出身はとぎこちなく尋ねた。すると彼は首を横に振って、携帯を打ち込み始めた。そしてくるっと向けられた画面には日本語で「英語はわかりません」の文字。

彼はこちらに画面を向けたまま、自分の携帯を私に手渡した。そこに文字を打ち込んでくれと促す。日本語でどこに住んでいるのかと打ち込むと中国語に変換された。変換された文字を見て「China 北京」と彼は笑顔で答えてくれた。

会話で意思の疎通ができない我々は、インターネットの翻訳機能を介してコミニュケーションを取った。チェンマイには旅行できているのか、1人で来たのか。彼はテラス横のガラスの壁を指差し「家族」と答える。指を差した店内には小さい女の子と若い女性が横並びで座っていた。どうやら家族旅行で来たらしい。それからいつまでチェンマイにいるのか、チェンマイは初めて来たのかなど当たり障りのないことを彼に聞いた。少し会話が弾んできたころで彼は「僕は日本が好きなんです」と我々に伝え、ニコッとした。そしてまた再び打ち込まれた画面には「僕は本当のことしか言わない」と書かれていた。思わず「私たちも中国好きだよね?」と夫に向かって日本語で返してしまった。

我々も中国好きですよ?という旨を彼に伝えると胸に手を当てて微笑んでくれた。

その後彼は「僕は日本人の気質が好きなんです。中国は50年経っても日本の気質には追いつけない。」という文字を我々に見せた。意外な言葉にありがとうと返すも、そんなこともないのでは...と少々戸惑ってしまった。「娘も東京の学校に入れたいと思っている」と彼は続けて言った。

彼が吸う細いタバコはあっという間に消費され、次から次へと新しいタバコに火がついた。そして自分の吸っている細いタバコを夫にも「どうですか?」と一本差し出して勧めていた。夫の横に置かれたタバコの箱にはまだ何本もタバコが入っているのに、それでも彼は自分のタバコを差し出し夫に分けてくれた。

「僕は中国の封建思想が良くないと思っている」再びこちらに向けられた画面にはこのように入力されていた。私はその画面をみても頷くことしか出来きず、何も返す言葉はなかった。

時々彼は酷く咳をして噎せていた。「風邪じゃないので心配しないでください。昔から気管支が弱いんです」じゃあ何本も吸うんじゃないよと思いながら、先程から彼が我々を気遣う気持ちが嬉しかった。「僕の家には2台車があるんだけど、どちらも日本製。日本の製品は素晴らしい!」など彼はその後もとにかく日本のことを褒めちぎっていた。そんななかなか戻ってこないお父さんを気にして、彼の娘が時々テラスにやって来てはお父さんの膝の上にちょこんと座っていた。目の大きな可愛いお嬢さんだった。

結局1時間経ってもやまない雨に観念した我々は、濡れながら目的の店を探すことを決意し彼に別れを告げた。彼は小さく手を振って我々を見送ってくれたのだった。

ニマンヘミン通りはたった3時間程度の間で道路に雨水が溜まって川となった。ジャバジャバと音を立てて歩きながら、ふとわたしは思った。そういえば彼に中国の好きなところを1つも言わなかったということを。

それから2日後、チェンマイからバンコクに移動した我々は中国人街を訪れていた。赤と金を基調とした派手な看板が溢れる大通りから少し脇道に入った狭い通り道を2人で歩いた。横並びで歩けるほどの間隔がなかったので、夫を先頭に一列になって細い道を進んでいった。何故か途中、狭い路地に人々が長い列を作っていた。どうして一列に並んでいるのだろうと、列に並ぶ人の横を通り過ぎた時、突然背中に冷たさと個体がぶつかる感触を感じた。驚いて思わず悲鳴をあげた。どうやら氷の入った水を背中にかけられたらしい。背中がどんどん冷たくなった。わたしは声を荒げ「もうこんな道歩かない」と言いながら夫を抜きさり足早に細い路地を抜けていったのだった。


旅から戻ってあの時何故水をかけられたのだろうかと色々考えた。日本人だから、女だから、外人だったから、この街の者じゃないから、わたしが気に食わなかったから...色々考えたけど、よくわからなかった。「よくわからないけど、路地で水をかけられた」のである。もしチェンマイのカフェで彼に会っていなかったら、水をかけられたことを根に持って「中国人街で突然水をかけられた」と人に言っていたかもしれない。確かに事実だけどそうは伝えたくないと思った。水をかけられたのは中国人街だけど中国人とは限らないのに、わたしの話を聞いた人が中国のイメージを悪くするかもしれない。わたしも彼に合わなかったら「中国人街で突然水をかけられた」といって中国人のイメージを悪くしていたかもしれない。そう思った。

2つの出来事でわかったことは、当たり前だけれど万国共通人それぞれということであった。日本人だから、中国人だから、タイ人だから、金持ちだから、男だから、女だから、ゲイだから...わたしはそういう見方で物事を見ないようにしようと心に決めた。でもそういう見方しかできない人もいることを忘れてはいけない。そんなふうに思う。

そして彼に「中国が好き」と言ったにも関わらず具体的な点を何も言えなかったことを恥じたのだった。中国に対して特に感心も持っていないのに「好きだ」と言った自分に気づいたのである。

(薄っぺらい...)

わたしは薄っぺらく浅かった。

そんな薄っぺらい自分はインターネットを頼りに封建思想について調べるのであった。