裸の付き合い

大きな風呂にのんびり入りたい。と、ふと思い立って近所の銭湯に行ってみることにした。街中にある銭湯に行くのはこれが初めてであった。

銭湯に行く前、私は用事があり出かけていた。そこそこ長い髪は美容室でセットされ、髪が落ちてこないよう念入りにピンとスプレーで固定されて頭はガチガチであった。2回シャンプーをしないと復活しない見込みである。銭湯に出かける前に30本くらい刺さっていたアメピンやUピンを一本残らず引き抜いて髪をほどいた。

さて銭湯の持ち物を準備しよう。

けれどもわたしは銭湯ビギナー。銭湯の持ち物がわからない。一体何を持っていけばいいのだろうか。バスタオルはまぁいるだろう。あと化粧水とかパンツか?とりあえずバスタオルと化粧水、替えの下着をビニール袋に詰めて家を出た。

近所の銭湯は徒歩五分くらいで到着する。住宅街に違和感なく馴染んでいる近所の銭湯。屋根よりも高い銭湯の煙突、入り口から漂ってくる石鹸の匂いに「銭湯!銭湯」と気分上々で扉を開けた。

ゆ の暖簾をくぐって中に入る。まず目に飛び込んできたのは「本日、シャワーでません」の張り紙であった。お湯が出ないってことなのか?華々しい銭湯デビューのはずが一瞬で雲行きが怪しくなった。

「お湯がでないんですか?」

「シャワーが使えないんだよ。カランからはでるよ」

身体の縮こまったおばあちゃんが番台からニコニコしながら言った。

カランから出るならまぁなんとかなるだろう。せっかく心弾ませて到着した訳だし、私はシャワーの使えない銭湯に入ることを決めた。

入浴料をおばあちゃんに渡す。どうやらプラス300円でサウナを利用することができるらしい。

「サウナも入ろうかな♪」

「女風呂のサウナはスチームだよ。やめときな」

なぜだいばぁちゃん?なぜ止められたのかは謎のまま銭湯ビギナーはおばあちゃんの指示によって脱衣所へと向かった。

開いているロッカーに手荷物を入れて服を脱ぐ。するとあることに気がついた。浴場に持っていくタオルがない。しまった。これは何かと不便である。服を着て再度おばあちゃんのいる番台へと戻り、50円で黄色いタオルをレンタルした。

改めて脱衣所で服を脱ぐ。脱ぎ終わってから銭湯ビギナーはまた新たな問題に直面する。脱衣所からいざ浴場へと入場する際に、タオルでどこを隠すべきなのか。上なのか。下なのか。当たり前だが上を隠せば下が出る。下を隠せば上がでる。何が正解なんだ。タオルを伸ばして両方隠す手もあるが気取った奴が入ってきたと思われないだろうか。

結局答えが出ず、上も下も隠すことなく黄色いタオルを握りしめそさくさと中に入り、適当な風呂椅子に座った。

浴場には6人くらいの老婆を主体とした女性達が風呂の椅子に座って頭や身体を洗っていた。そして皆カランを勢いよく連打押しし、桶に溜まったお湯で身体を流していた。カランから出るお湯は何故桶の半分も溜まらないくらいのところで止まってしまうのだろう。どうせなら満杯で止まればいいのに少量で止まる。めい一杯溜めてザブンとするため、私も先輩方に続いてカランを連打推しした。

髪がガチガチのせいか、私の髪は簡単には濡れなかった。カランを連打するだけでのぼせそうである。まだシャンプーまで辿りついていない。苦行か?ましてや今日の私は2シャンしなければいけないのに...

ようやく髪に水分が行き渡ったので備え付けのシャンプーに手を伸ばしポンプを押した。ポンプを押した瞬間にわかった。このシャンプーは薄められている。3倍希釈くらいだろうか?しかも洗った後ボサボサになる終わってるシャンプーだろう。周りをよくみると皆周知の事実のようでマイ・シャンプーを各々持参していた。

私はシャンプーも持っていなければ、タオルも忘れている。黄色いタオルをレンタルしている人など誰もいない。私は銭湯を舐めていた。心の底から悔やんだ。こんな薄められたシャンプーで今日の私のガチガチの頭がどうにかなることはない。

(仕方ない。髪は家に帰ってちゃんと洗おう。)

私は髪を洗うことを諦めた。レンタルした黄色いタオルでしっかり髪を包めば湯船に浸かっても迷惑をかけないだろう。今日の目的は大きな風呂にゆったり浸かることなのだから髪がちゃんと洗えなくてもそれでいい。それでいいのだ。

頭を適当に洗った後、同じく薄められた泡立ちの悪いボディーソープで身体を洗いイザ湯船!と颯爽に向かおうとした、その時であった。

 「あんた、そんな長い髪なのにもう洗い終わったのかい?もう一回ちゃんと洗いな」

バレた...ちゃんと洗ってないのをとなりのおばさんが見ていたのだ。適当に洗った頭で湯船に浸かるなという意味だろうか。この終わってるシャンプーでもう一回洗えば風呂に入る許可はもらえるのだろうか?できることならもう変なシャンプーで髪を洗いたくない。

「ここのシャンプーだと髪がちゃんと洗えないので、家に帰ってからまた洗おうと思って諦めたんです。」

申し訳ない!見逃してくれ!私は表情筋をフル活用して困った顔を作り、おばさんを見つめた。

「また家に帰って頭を洗う?入浴料払ってそんな勿体無いことするんじゃないよ。洗えるもん全部洗ってモト取らなきゃ。それにここのシャンプーなんか使い物にならないんだから持ってこないとだめだよ。わたしのシャンプー貸してあげるからもう一回しっかり頭洗いな!」

そういうとおばさんはプラスチックのボトルに入ったシャンプーとリンスをわたしに手渡した。よく見るとおばさんはプラスチックのカゴを持ちこんでおり、シャンプーのほか体を洗うタオル、歯ブラシ、軽石、その他諸々常備をしていた。洗えるもんは全部洗え!そのアグレッシブな心意気がプラスチックのカゴに詰め込まれている。

正直おばさんから借りたシャンプーでも自分の髪を洗いたくなかった。メリットだったら嫌だから。しかし気が弱い私は「助かります」と言って再び髪を下ろしてカランのお湯をかけ、渋々シャンプーをし直すのであった。

「あんた髪が長くて大変だろうからさ、わたしが手伝ってあげるよ」

そういうとおばさんは立ち上がり空いている桶を片っ端から集めてきた。

そしてわたしの横でカランを連打押しし、桶にお湯をため始めたのであった。

「どんどんかけな!」

わたしの足元にお湯の入った桶が続々と集まってくる。そのお湯をわたしは必死で頭にかける。おばさんも負けじとお湯を溜める。こうしてわたしとおばさんの間である一定のリズムが生まれた。椀子そば、そう、例えるならば椀子そば。ワンコソバのリズムである!

なかなか息のいいコンビネーション。そのうちおばさんはさらにノッテきたのか、右手と左手でカランを押せる位置に風呂椅子を移動し、両手でカランを長押ししだした。両手に体重がかかるように足をM字に開いて踏ん張り、全力で2つのカランを押していた。先程の2倍の速度で桶にお湯が溜まるもんだから、ワンコソバのリズムは崩れ桶は私の足元で渋滞した。わたしは必死だった。もう充分すぎるほど頭をすすいでいる。もういいだろう...もうやめてくれ。

「あら!久しぶりじゃないの。」

たった今浴場へ入場してきたおばさんがカランのダブル押しに勤しむおばさんに話しかけた。

「あら久しぶり!そうなのよ。ちょっと入院してたのよ〜」

病み上がりかよ...カランの押しすぎで血圧が上がって再入院とかにならないだろうか。

おばさんの監視のもと十分すぎるくらい頭を洗い、そろそろ解放されるのかと思いきや、

「ほら、背中も洗ってあげる!」

そう言うと病み上がりのおばさんは自分で持ってきた洗いタオルで私の背中を洗いだしたのだった。

(痛い.....)

おばさんの洗いタオルは鋭かった。こすると赤くなるタイプのやつである。おばさんは力を込めてわたしの背中を洗ってくれた。背中から血が出そうだ。しかしおばさんはたぶん善意。痛い!と叫びたいがクッ..と唇を噛み締めわたしは耐えたのであった。

もういいだろう。もう十分すぎるくらい体も洗った。大きな風呂にゆったり入らせてくれ。

「ありがとうございました。あの、お風呂に入ってきます」

さぁ、これでようやく念願の大きな風呂に入れる。壁の富士の絵がおいでとわたしを呼んでいる。黄色いタオルで髪を包み、風呂椅子から立ち上がって大きな風呂に向かおうとすると

「あっちの風呂は熱いからこっちの小さい風呂で慣らしてから入りな!」

出るまで全部チェックされるのだろうか。しかし私は銭湯ビギナー。言われるがまま回れ右をして指示された小さい風呂へと向かった。小さい風呂はサウナのとなりにあった。深さがあり、どう見ても水風呂であった。恐る恐る足を入れるとだいたい41度くらいの湯だろうか?水ではなく程よい湯加減の湯であった。おそらくサウナ後の水風呂のための風呂だったのだろうが、サウナ利用者がいないため水風呂をなくして優しいお湯加減の風呂場を作ったと推測。サウナ利用者がいない訳じゃなくて、あの番台のせいのような気もするけど。

妙に狭く深いお風呂に浸ってホッと一息ついていると、妙な風呂にソロソロと大人しそうなおばさんが入ってきた。狭い風呂に2人が並んだ。しばしの間の後、 

「あっちのお湯は結構熱かったんだけど、ここのお湯はちょっとぬるめでちょうど良いですね」とおばさんが声をかけてきた。

「そうですか。まだ入ってないんですけど、あっちのお風呂が熱いっていうのは聞きました」と返すと、大人しそうなおばさんはにっこり笑ってその後すぐに妙な風呂から出ていった。

今日は知らない人とよく喋る日だ。しかも裸で。裸の付き合いっていうのは、言葉通り裸になると心が開かれるのだろうか。特に女性はそうなのかもしれない。そういえば映画モテキの一コマで主人公の森山未来と一夜を共にした麻生久美子が「朝ごはん作ろうか?」とるんるんで尋ねると「うるせぇ!1回ヤッたくらいで調子のんな!」の勢いでキレられるあのシーン。あれは切なかった。劇場で狼狽えた。わたしなら翌朝無駄に早起きして勝手に朝ごはんを作ってる。裸になって心を開いて怒られるなんて切ない。一緒に寝たんだから調子に乗ちゃうわよ、ね!麻生久美子!!

なんてことを考えたり考えなかったりしながら妙な風呂から出て、ようやっと本日のメインでかい風呂に到達することができた。やっと会えたね!壁の絵の富士が微笑んでいる。念願の大きな風呂は半分が電気風呂、半分がジャグジーになっており、お湯加減は44度といった具合だった。まずは電気風呂。どんなもんかと入ってみると少しピリピリした感触が肌で感じられる。なるほど。速攻でジャグジーの方に移動した。ゆったり大きなお風呂に浸かりたい。わたしは目的達成の前に体力の限界に到達していた。ゆったりなんて浸かっていたら意識を失う。一体どこで歯車が狂ったのだろうか。最後の力を振り絞ってジャグジーへ突入。あ...ここのジャグジーは勢いがあります!強めのブクブクが肩や腰のこりに当たると思わず吐息が漏れ絶頂。400円で至福の時間を味わうことができます。クルっと回転し足裏も刺激しましょう。あ...効きますね!あ、いい!イイ!イ!ィ終了!

結局私は大きな風呂から3分もしないうちに出てしまった。壁の富士が泣いている。でももう限界であった。浴場の滞在時間は1時間を超えているんだからモトは取った。取ったぞ!!

スタスタと浴場を退出し脱衣所に入りロッカーの鍵を開けてバスタオルに顔を埋めた。顔を埋めたまま はーーーーとため息のような息をついていると

「ちょっと涼んでさ、汗が引いてから着替えな!」

すぐ横で病み上がりのおばさんが下着姿で扇風機に当たりながら私に言った。まだいたのか。最後の最後までおばさんは銭湯ビギナーにご指導ご鞭撻をしてくれたのであった。

「わかりましたー!」と言いながら私は速攻で着替えて髪を乾かさず銭湯を後にした。もうなんか疲れちゃったから早く家に帰りたかった。

体はまだまだ火照りきっと顔も真っ赤である。赤い顔に夜風が当たると冷んやりして気持ちがいい。なんか疲れちゃったけど、楽しかった。また行ってみようかな。病み上がりのおばさんはまたいるのだろうか。番台のおばあちゃんは今度はサウナに入れてくれるだろうか。銭湯に行ったことで、体も心もあったかくなったようだ。

「ただいま!」とほっこりした気持ちで玄関を開け、私は速攻でまた風呂場に行って髪を洗った。メリットだったら嫌だから。

 

 

 

 

 

ピラティスに通っている

強欲なわたしですから、30を過ぎてもそれなりに小綺麗にして健やかな人間でありたいと願ってしまうもんで、こそこそアンチエイジングに励んだりしている訳である。

その一環で、2年前から友人が始めたピラティス教室に通っている。猫背を治したいとかたるんだ二の腕を引き締めたいとか見た目の改善の目的もあるのだが、将来尿もれで悩みたくないとか、年金も当てにならないし寝たきりになっては困るなど先々を見据えて筋トレをしていくことを決めたのだった。ちなみにピラティスピラティス氏が負傷兵のために考案した筋トレメゾットみたいなものである。

最初は4〜5人を対象としたグループレッスンを受講していたのだが、人の失敗に敏感に反応してしまうわたしはフォームが維持できず崩れ落ちる人を見てはニヤついていた。唇を噛み締め壁を一点見つめ、腹筋におもいっきり力を入れて笑いを堪える。そのことが結構しんどく、さらにツボに入ると後を引くというタチの悪さも相まって3回ぐらいでグループレッスンを辞めることにしたのだった。「人が失敗すると笑ってしまうのでグループレッスンをやめる」と正直に先生に伝え、それからというものプライベートレッスンを受講している。しかしプライベートレッスンは少々金額が高くなるので、細く長く続けるためにはやっぱりグループレッスンも併用しようかと考えていた矢先、なぜかわたしがグループレッスンを辞めた理由が他の受講生の耳に届き「最低」と言われている事実を先生から伝えられ、再起不能であることを知るのであった。

そんな訳で2年近くマンツーマンで指導を受けている訳なのだが、自分の体なのに今まで気がつかなかった発見がたくさんあった。背骨が硬いとか足首が硬いとか足の指が全く動かないとか息が吸えないとか、日常生活で気が付かない体の指摘を受けそれを改善すべく地味な運動を指導された。最初はひたすら息を吸ったり吐いたりする運動をしていたのだが、これだけで酸欠を起こしてしまったこともあるくらい私の体は腐っていた。足の指を動かすだけで汗をかき、足をつって悲鳴をあげることもあった。これで人のことを笑っていたのだから最低と呼ばれてもしょうがない。そんな現代の負傷兵が定期的に通い続けた結果、息も吸えるようになり足指も動くようになった。さらに通って半年くらい経つと痩せたねとか首ができたねとか嬉しい言葉をかけられるようになった。おそらく小さい体の負担や歪みが蓄積した結果が体型となって現れるのだと思う。まだ猫背だしくびれもないし足首も硬いし改善点はたくさんあるのだが、気長に続けていこうと思う。

 

 

 

盗作をしてしまった

最近盗作をしてしまった。ある人の表現を真似してしまったのである。やっぱり?もしかして?と思った人がいたらすみません。そうなんです、真似しました。弁解させてもらうと悪気はありませんでした。気づいたらやってました。申し訳ありませんでした。

わたしの盗作を1番に気づいたのは夫だった。夫はわたしの一読者としてブログやサイトの記事にほぼ目を通してくれている。 ある日わたしが元気よくツイッターをしていると「ねぇ!この記事さ、Aさんの表現の真似してない?」と夫に物申されたのであった。 「え?そんなことないよ」と半ギレ気味で返事をし、ツイッターをやめてすぐに自分の文章を確認すると「たしかに...」と認めざるを得ない事実がそこにはあった。 「これ読んでさ、Aさんの真似してるって思う?」と念のためもう一度確認すると「でしょうねぇ...」と表情も変えずに淡々と答える夫。

やった、やってしまった。盗作だ!!思い当たる節はあった。Aさんの記事が素晴らしい!と、事が発覚する3日前くらいに、Aさんの記事をコメント付きでツイッターリツイートしたのであった。Aさん素晴らしい!Aさん素晴らしい!のテンションで書いた文章。その結果、完成したそれはAさんの要素が織り交ぜられた仕上がりとなってしまった。

(真似したっていうかAさんにインスパイアされたからなんだけど......いや、でもそんな事言っても通じないか...)

田口ランディ安倍なつみに次ぐさとみこんこんの盗作。安倍なつみは盗作をした事態を重く受け止め活動休止をした。私もサイト及びはてなブログを自粛するべきか....いや待て?もしかすると夫婦間でしかわからないレベルの盗作の可能性もある。それなら以後厳重注意でいけるか?

そこで私は早急に第三者委員会を勝手に発足し、連絡を取ることにした。連絡をした相手は我が社のCEO(私のパクった記事を運営するサイトの管理人)であった。

「すみません、実は私のこの前サイトで公開された記事なんですが、夫にAさんの真似をしていると指摘されまして...あの、そう思いましたか?」

 

「正直そう思いました」

 

「!!!?!!!」

 

何で言わないCEO!言ってくださいCEO!CYOTTO ENRYOSHINAIDE ONEGAISHIMASSE!

とこんなことは思わず正直マジかよの言葉しか浮かびませんでしたが、第三者委員会も黒と判断を下したということは、これは夫婦間で済まされる問題ではないということがわかりました。

とりあえず、今回の件は「わざとじゃないんです」の意思をはっきりと第三者委員会に伝えた上「私は人の影響を受けやすいため今後も同じような過ちを犯す可能性がある。その時は指摘してほしい」と今後の対策をしっかりと添えて返信したところ、第三者委員会a.k.a CEOからはなんの音沙汰がないまま今に至っております。

何で言わないCEO!!CYOTO EEE????OHENZIHA??????とも思わず正直無視かよの言葉しか浮かびませんでしたので、私は次の対策へと移りました。

謝罪文の作成。今書いているこのブログです。本人に直接お詫びのメールを送ることも考えましたが、そもそも本人が気づいているのかわからないし、いきなり真似してすみませんと送られても困るだろうし、だけど万が一私の文章をご覧いただき「この見覚えのある文章....このアマ!」と思われていたら辛いものがあります。ですからせめてお詫びの言葉を記したい。世間的にも何か問題を起こした際は早急な対応・謝罪会見が良しとされる今日であります。影響を受けやすい私ですから世の中の流れに従って謝罪ブログを心を込めて記したいと思います。

 

Aさんへ

この度は申し訳ありませんでした。

Aさんの文章をいつも楽しく読ませていただいています。Aさんの文章はいつも面白く、私の骨の髄までしみています。そのひたひたに染みた状態で自分の記事を作成したらあのような仕上がりになってしまいました。申し訳ありません。しかも似せたわりにたいして面白くない仕上がりで恥ずかしく思っています。またAさんの気分を悪くさせていないかと心配に思っています。今後はこのようなことがないよう、厳重に注意し文章の作成に励んでいきたいと思っています。           

さとみこんこん

 

気をつけよう。無意識で盗作なんてタチが悪い。気をつけよう。と肝に銘じた時、ふと思い出したのは半年前の出来事だった。

 あれは飲み会の席だった。

あの日はラッキーなことに私の好きなライターさんの隣でお酒を飲んでいた。ラッキーラッキーとほろ酔いで酒を飲んでいる私に「あの、我々の文章って似てると思いませんか?」と好きなライターさんから尋ねられたのであった。

え!光栄だなと思い「光栄です!光栄です!」と素直に光栄とだけ言って終わったのだがあの時のあれって「あの、文章真似してますよね?」そういう意味だったのかなと思い、マジかよの言葉しか浮かんでこないのですがどうなんでしょうか。みなさんはどう思いますでしょうか。

吉澤ひとみが事故を起こす前から田口ランディ安倍なつみと書いていたのに意識的に安倍なつみを使った感、これはみなさんはどう思いますでしょうか。

 

 

 

突然の来客

生まれてから小学校5年生くらいまで社宅のアパートに住んでいた。「けやき荘」と「銀杏荘」という名前のアパートが2棟並んでいて、我が家は「けやき荘」の住人であった。古くてボロいアパートの上、名前がダサすぎるのも嫌だったけれど、アパートには子供も多かったし、住んでいる住人は陽気な人が多く退屈はしなかった。

けやき荘の住人「堀池さん」はとにかく面倒見がよく声が大きかった。堀池さんは2階の住人で、板前の旦那さんと私より4つ年上の「なり君」という息子と3人で暮らしていた。新鮮な魚が手に入れば、綺麗に捌いて刺身にして我が家に持ってきてくれたり、運転のできなかった母を誘っては車に乗せてちょっと距離のある激安スーパーに連れて行ってくれたりしていた。暇な時は「いるー?」と大声で外から声をかけ、一階のうちの窓をガラっと開けて勝手に家の中を覗いてきたりと、少々大胆な行動をとる人だった。見た目もショートカットでずっしりしていたので私も姉も妹も「堀池さんは男なのか、女なのか」と小さい頭をそれぞれ悩ませていた。しかしその答えは堀池さんとお風呂に入った時に解決したのであった。面倒見の良かった堀池さんの家で何故か堀池さんと一緒にお風呂に入った時、母のよりも大きかった堀池さんのお胸を見て「堀池さんは女」と判断したのであった。フェロモンっていうのは誰もが持っているのかわからないけれど、堀池さんからはたぶん「男気」が漂っていたのだと思う。だから小さかった我が家の三姉妹は男か女かで困惑してたのだと思う。

そんな男前な堀池おばさんのある日の話である。午後の昼下がりに堀池さんがけやき荘のお家で寛いでいると、突然玄関のドアがバタンと開いて人が入ってきたのであった。

「助けてくれ!!!」とドカドカ部屋に上がってきたのはなんと頭から血を流した男だった。さすがに堀池さんも驚いたのか、慌ててうちの家にやってきた。どうやらヤクザかチンピラに追われて逃走中の人だったらしく、たまたま堀池さんの家に助けを求めて上がり込んできたようだった。その時の堀池さんはパニックというよりは「ねぇ、どうしよう〜」と面白い話をしにうちにやってきたような感じだった。結局その追われた男を毛布でぐるぐるに包んで車に乗せて、堀池さんがどこかに逃がしてあげたのだった。ぐるぐる巻きの男を後部座席にのせた後、運転席でハンドルを握りしめた堀池さんが颯爽と車を走らせていく様子は今でも覚えている。堀池さんかっこいいなと小さい頃のわたしは思ったのであった。

そんな昔の出来事を思い出したのには理由があった。先日うちの家の前で知らないサラリーマンがスーツ姿で酔っ払って寝ていたのだ。ちなみにうちはマンションの4階で、エレベーターがないので階段で上がってこないと辿りつけないのだが、酔っ払いは朦朧とする意識で4階まで上がり、そして何故かうちの家の前で力尽き寝ていたのであった。「いってきます」と出勤する夫が玄関を出たところで寝転がる酔っ払いと遭遇。夫は寝ている酔っ払いを起こして「ここで寝るのはちょっと迷惑です」とひとこと言うと、酔っ払いは「ごめんなさい。迷惑をかけるつもりじゃなかったんです。」と言って起き上がり、ヨタヨタ階段を降りてタクシーをつかまえて帰っていたのであった。なんでうち?と不思議であったが、基本的に酒のみに寛大な我が家である。もしかしたら玄関のドアをくぐり抜け「酒飲み万歳」の心持ちが漂っていたのかもしれない。はたまた酒臭いのか...

あの時堀池さんの家を訪ねてきた逃走者は、もしかしたら堀池さんの男気をどこかで感じとって部屋に上がり込んできたのであろうか。なんでわざわざ2階の堀池さんの家だったのかずっと不思議に思っていた。あの後上手く逃げきったのであろうか。そんな昔のことを思い出しながら、あぁ、あの酔っ払いにコップ1杯の水でも飲ませてあげればよかった。なんて思ったりしたのであった。

 

 

SETAGAYAバブル時代

あっという間に30を超えるとおしりも垂れ始め、順調におばさんの道を歩んでいるわたしであるが、わたしにだってイケイケでバブリーな時代くらいあった。あれは26歳の時だった。当時彼氏は医者の息子。世田谷生まれ世田谷育ち代々医者のご家庭に生まれた彼の彼女としてはりきっていた時代。それがわたしのバブル期である。世田谷の一軒家に住んでいた彼の家にはお手伝いさんがいた。お手伝いさんもいれば、トイプードルもいるし、庭には鯉が何匹か泳いでいた。イメージ通りの金持ちライフを送る彼を見て、影響の受けやすいわたしが庶民を貫くわけがなかった。世田谷の街をどう見ても気乗りじゃないトイプードルと一緒に散歩し「お食べ」と率先して鯉にエサをやった。彼氏の家でカレーを作るために世田谷のスーパーで買い物をした時はもうセレブを気取って大変であった。値段も見ずにどんどんカゴに食材を入れる彼の姿を見てわたしも負けじと「世田谷!世田谷!世田谷!」と世田谷のリズムにあわせてどしどしカゴに物を入れていった。世田谷のスーパーから買ってきた食材を、世田谷のキッチンで調理して、世田谷の家で出来上がったカレーを、世田谷の家で食べたあの日・あの時をわたしは忘れない。そんな世田谷かぶれな26歳だった私ですからあのことを考えない訳がありませんでした。あのことそう「結婚」です。

(彼と結婚したらわたしは医者の夫人。)

妄想は続く。

(今日は旦那が教授を連れて家にやってくる日。気難しいと評判の教授らしく緊張する私。しかし教授が私の手料理を食べた瞬間「旨い!実に旨い!君の奥さんの料理は絶品だな。よし、今度の学会の件は僕に任せたまえ」こうして夫の出世に一役買ったわたしは最高の嫁として院内でも評判に....)

妄想はまだ続く。

(世田谷在住さとみこんこんさんの今日のファッションコーデです。ファッションポイント:医者の妻としてエレガンスさを大切にしつつコンサバティブになりすぎないよう意識しました。『医者の嫁になるための100の秘訣』絶賛発売中です!..... こうしてわたしなVERY妻の憧れとなった)

大変だ、めっちゃ忙しい。それにこのままのわたしじゃだめだ...そうと決まれば自分磨きである。そんな一歩も二歩も三歩も先を読んで行動するわたしが向かったのは、都内某所の和食料理教室でした。1レッスン8700円と少々お高い金額でしたが「医者の嫁になるんだからこれくらいの投資をしないと」を合言葉に1年近く通ったのでありました。はい?ABCクッキングスタジオで良かったのでは?いい質問ですね。「教授を唸らし出世コース」が狙いですから、日本料理をさっと出せるレベルにならないといけません。従って1レッスン8700円の和食料理教室に通う必要があったという訳です。えぇ、そうなんです。

お稽古は、だいたい5〜6人の生徒さんと一緒に四季折々の献立を先生の指導の元作っていった。料理経験は多少はあるが実家暮らしをしていて母に料理は任せっきりだったため、ろくすっぽ私は料理ができなかった。またわたし世代の人はほとんどおらず、だいたい35歳〜50歳の女性がメインであったため、おそらく料理教室では最年少、料理経験もほとんどない上にまだ世田谷にも住んでおりませんでしたから料理教室のヒエラルキー的に私は下の下でありました。そういう分際は料理教室で何をするかというと、もっぱら皿洗いに徹するという風潮がありました。だってやることがないのだから。

「このお魚を捌きましょう」こういのをやりたかったのだが、料理教室も立派なお魚を人数分も用意する訳にもいかず、代表2名ないし3名が魚を捌くことになっていた。この立派なお魚を捌く人選は先生のご指名ないし挙手で決まるのだが、挙手をする者などなかなかいなかった。なぜかというと万が一失敗すると分け前が減るダメージだけではなくメンバーインスタ映えを台無しにする責任がついてくるからであった。仕上がった美しいお料理を写真に撮ってSNSで公開するのも大切な活動の一つ。これはカリスマVERY妻を目指す私だけではなく他の生徒さんにとっても大事な活動であった。中には一眼レフを持ち込む気合いの入った生徒さんもいた。先生もこの辺りは心得ていたようで、上手にできそうな人を指名することが多かった。大仕事が決まった瞬間、じゃあ私はこれを。じゃあ私はこれを。と諸先輩方は当たり障りのない仕事に皆一斉に取り掛かってしまうので私はいつも仕事を失っていた。結果皿洗いという一連の流れが確立していたのである。しかし先生も8700円払って毎度皿洗いをさせるわけにもいかないので、野菜の塩もみや、ゴマをすり鉢でする仕事や、揚げ物の見張り当番などをわたしに任せてくれた。しかし時々何を思ったのか「さとみこんこんさん、この鱧を捌いてみましょう」と突然ハイレベルな仕事を私にぶつけてくる日もあった。は、ハモですか先生!と先生のご指名を受けてみんなの前で捌いたあの日の鱧。あれは忘れられない。あの日の皆の視線を忘れられないのである。大切な鱧をズタズタにしてしまった記憶があるが、もう一生鱧を捌くこともないだろうから良い経験になったと今では思う。

この料理教室では希望した日にたまたま揃った5人ないし6人で料理を作っていたので、顔なじみくらいの人はできたが1年通っても互いに自己紹介をして仲良くなるような人は現れず、顔と名前が一致する人物がほぼいなかった。しかし生徒の中で1人だけ一致する人物がおり、それは私だけではなく他の生徒も一致していたようであった。その人は「永田町の奥様」と呼ばれる人物であった。ある日隣の女性が急にラッピングされた手作りのお菓子を私に渡してきた。「え?これは...」と尋ねると隣の人が小声で「あの....永田町の奥様からです」と答えたのであった。永田町の奥様はよくお手製のお菓子を作ってきては皆に配ってくれたのだった。どうして永田町の奥様が永田町にお住まいという個人情報がバレてしまったのか知らないが、皆なぜか周知の事実であった。つまり私もお手製の菓子など持ってきて世田谷世田谷と口ずさめば「世田谷の奥様」を確立させることができるのではないだろうか。これはヒエラルキーの向上→皿洗いからの脱却であります。この時から私は永田町の奥様についていくことを決めたのでした。

このまま永田町の要素を取り入れつつ世田谷は大きく発展していく。そう誰もが信じて疑いませんでした。しかしバブルというのは泡の如く消え行く様を表す言葉。日本のバブル期は51カ月で崩壊へと向かったのですが、私のバブルはなんと6カ月で雲行きが怪しくなり9カ月で崩壊しました。一説では実質6カ月で終わっていたと分析する専門家もおります。つまり世田谷も崩壊、VERY妻は引退、『医者の嫁になるための100の秘訣』は廃刊に追い込まれ、私に残されたのは8700円の料理教室だけでした。世田谷ブランドが使えないのなら菓子を配ってもしょうがない。結局わたしは料理教室に一度もお手製の菓子を持っていくこともなく、皿洗いの川口として誰からも覚えられることなく1年間をやりきりました。しかし8700円払って懸命に通ったわけですから身についた知識や技術もあります。せっかくですから以下にまとめてみました↓

①「肉でも魚でも焼く時も煮込む時もとにかく酒をふんだんにかけろ!!」(料理酒ではなく日本酒の方が良い。さらに小さな霧吹きに日本酒を入れておくと大変重宝いたします)

 

②魚のはらわたは歯ブラシを使って洗うとよく洗える!!!


③柿は白和えにすると旨いし、きな粉をまぶしても旨い!


イカが捌けるようになった。


以上です。そしてバブル崩壊後の世田谷の奥様の現在はというと、中野の奥様として築40年のヴィンテージマンションに住んでいるそうです。


薄っぺらい脳

タイのチェンマイを夫と2人で旅行した時の話である。その日はよく晴れて汗をかきながら旧市街をウロウロ歩いていた。すると突然雲行きが怪しくなりポツポツ雨が降り始めた。夫とわたしは慌ててトゥクトゥクに飛び乗ってホテルのある方向へと戻った。今日の予定ではホテルに戻る前にニマンヘミン通り近くにあるアクセサリー屋に立ち寄る目的であったが、外は雨というより大雨。横なぶりの雨がトゥクトゥクの中にも入ってくるほどであった。しかし行きたかった店である。明日は明日の予定があるしできれば今日その店に行きたい。通り雨だろうということで、ニマンヘミン通り付近でトゥクトゥクを降りた。大雨の中を走り、一件のカフェで雨宿りをすることにした。ニマンヘミン通りはお洒落なカフェが多く、代官山や中目黒にあっても違和感のない素敵なカフェが多かった。そんな洒落たカフェでアイスコーヒーを買って屋根のついたテラス席に座った。喫煙家の夫はタバコを吸っていた。わたしは携帯を見たりボーッとしたりしながらテラスで時間を潰していた。雨は一向に止まず、激しい雨音をたてて降り続いている。すると1人の男性が店内から出てきてわたし達の席の前で立ち止まり、一緒に座っていいかとジェスチャーをした。どうやらテラス席でタバコを吸いたいらしい。わたしたちもどうぞのジェスチャーで彼を迎えた。

「Japan?」と彼はタバコに火をつけながら私たちに尋ねた。得意げに「yeah!」と笑顔で返し、あなたの出身はとぎこちなく尋ねた。すると彼は首を横に振って、携帯を打ち込み始めた。そしてくるっと向けられた画面には日本語で「英語はわかりません」の文字。

彼はこちらに画面を向けたまま、自分の携帯を私に手渡した。そこに文字を打ち込んでくれと促す。日本語でどこに住んでいるのかと打ち込むと中国語に変換された。変換された文字を見て「China 北京」と彼は笑顔で答えてくれた。

会話で意思の疎通ができない我々は、インターネットの翻訳機能を介してコミニュケーションを取った。チェンマイには旅行できているのか、1人で来たのか。彼はテラス横のガラスの壁を指差し「家族」と答える。指を差した店内には小さい女の子と若い女性が横並びで座っていた。どうやら家族旅行で来たらしい。それからいつまでチェンマイにいるのか、チェンマイは初めて来たのかなど当たり障りのないことを彼に聞いた。少し会話が弾んできたころで彼は「僕は日本が好きなんです」と我々に伝え、ニコッとした。そしてまた再び打ち込まれた画面には「僕は本当のことしか言わない」と書かれていた。思わず「私たちも中国好きだよね?」と夫に向かって日本語で返してしまった。

我々も中国好きですよ?という旨を彼に伝えると胸に手を当てて微笑んでくれた。

その後彼は「僕は日本人の気質が好きなんです。中国は50年経っても日本の気質には追いつけない。」という文字を我々に見せた。意外な言葉にありがとうと返すも、そんなこともないのでは...と少々戸惑ってしまった。「娘も東京の学校に入れたいと思っている」と彼は続けて言った。

彼が吸う細いタバコはあっという間に消費され、次から次へと新しいタバコに火がついた。そして自分の吸っている細いタバコを夫にも「どうですか?」と一本差し出して勧めていた。夫の横に置かれたタバコの箱にはまだ何本もタバコが入っているのに、それでも彼は自分のタバコを差し出し夫に分けてくれた。

「僕は中国の封建思想が良くないと思っている」再びこちらに向けられた画面にはこのように入力されていた。私はその画面をみても頷くことしか出来きず、何も返す言葉はなかった。

時々彼は酷く咳をして噎せていた。「風邪じゃないので心配しないでください。昔から気管支が弱いんです」じゃあ何本も吸うんじゃないよと思いながら、先程から彼が我々を気遣う気持ちが嬉しかった。「僕の家には2台車があるんだけど、どちらも日本製。日本の製品は素晴らしい!」など彼はその後もとにかく日本のことを褒めちぎっていた。そんななかなか戻ってこないお父さんを気にして、彼の娘が時々テラスにやって来てはお父さんの膝の上にちょこんと座っていた。目の大きな可愛いお嬢さんだった。

結局1時間経ってもやまない雨に観念した我々は、濡れながら目的の店を探すことを決意し彼に別れを告げた。彼は小さく手を振って我々を見送ってくれたのだった。

ニマンヘミン通りはたった3時間程度の間で道路に雨水が溜まって川となった。ジャバジャバと音を立てて歩きながら、ふとわたしは思った。そういえば彼に中国の好きなところを1つも言わなかったということを。

それから2日後、チェンマイからバンコクに移動した我々は中国人街を訪れていた。赤と金を基調とした派手な看板が溢れる大通りから少し脇道に入った狭い通り道を2人で歩いた。横並びで歩けるほどの間隔がなかったので、夫を先頭に一列になって細い道を進んでいった。何故か途中、狭い路地に人々が長い列を作っていた。どうして一列に並んでいるのだろうと、列に並ぶ人の横を通り過ぎた時、突然背中に冷たさと個体がぶつかる感触を感じた。驚いて思わず悲鳴をあげた。どうやら氷の入った水を背中にかけられたらしい。背中がどんどん冷たくなった。わたしは声を荒げ「もうこんな道歩かない」と言いながら夫を抜きさり足早に細い路地を抜けていったのだった。


旅から戻ってあの時何故水をかけられたのだろうかと色々考えた。日本人だから、女だから、外人だったから、この街の者じゃないから、わたしが気に食わなかったから...色々考えたけど、よくわからなかった。「よくわからないけど、路地で水をかけられた」のである。もしチェンマイのカフェで彼に会っていなかったら、水をかけられたことを根に持って「中国人街で突然水をかけられた」と人に言っていたかもしれない。確かに事実だけどそうは伝えたくないと思った。水をかけられたのは中国人街だけど中国人とは限らないのに、わたしの話を聞いた人が中国のイメージを悪くするかもしれない。わたしも彼に合わなかったら「中国人街で突然水をかけられた」といって中国人のイメージを悪くしていたかもしれない。そう思った。

2つの出来事でわかったことは、当たり前だけれど万国共通人それぞれということであった。日本人だから、中国人だから、タイ人だから、金持ちだから、男だから、女だから、ゲイだから...わたしはそういう見方で物事を見ないようにしようと心に決めた。でもそういう見方しかできない人もいることを忘れてはいけない。そんなふうに思う。

そして彼に「中国が好き」と言ったにも関わらず具体的な点を何も言えなかったことを恥じたのだった。中国に対して特に感心も持っていないのに「好きだ」と言った自分に気づいたのである。

(薄っぺらい...)

わたしは薄っぺらく浅かった。

そんな薄っぺらい自分はインターネットを頼りに封建思想について調べるのであった。




ラーメン屋

幼少の頃から漫画やアニメが好きで、「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」など子供らしいものから「らんま1/2 」や「笑ゥせぇるすまん」などちょっと大人なアニメも熱心に見ていた。漫画は父の買ってくるビックコミックオリジナルを楽しみにしており、三丁目の夕日あじさいの唄を読む一方、黄昏流星群で大人の恋愛模様を眺めていた。
そんな渋めの作品を小学校低学年の頃から見ていたせいか、なかよしやりぼんなどの小・中学生から人気の少女漫画には一切興味が湧かなかった。
特にあずきちゃんママレードボーイには嫌悪感すら感じていた。理由は意中の男を想って顔を赤らめたりするなど歯がゆいシーンが多いことやその割に簡単にキスをすることが気に入らなかったからである。あずきちゃんに至っては(あずきの野郎はまたキスをしやがって...)などと、心の中であずきちゃんを叱咤しまくって嫌っていた。小学生のわたしは秋元康の考える小学生の恋愛物語に共感できずにいた。
今思うと男女の淡い色恋話に恥ずかしさを感じてしまう多感な時期だったのかもしれないが、その一方らんま1/2では水のかかった女らんまのおっぱいが見えるシーン、喪黒福造がBAR魔の巣で乳を出したバニーガールのトランプの絵柄を見てマスターと一緒に顔を赤らめるシーンにテンションが上がっていた。あずきちゃんが顔を赤らめるのは腹が立つが喪黒福造が赤らめるのにはグッときていたのである。今でもおっぱいを出したバニーちゃんを見て赤面する喪黒福造のあのレアなシーンを見たくてネットで検索してみるものの見つけることができない。人に言っても「?」であのシーンを知っているという者になかなか出会えないでいる。だれかいません?あの不気味な笑みのまま顔を赤らめる喪黒福造を。
男女間の歯がゆい恋愛話には苛立ちすら感じるほど毛嫌いしていたのに、ちょっとエッチなワンシーンには身を乗り出して見物する幼少期。志村けんのバカ殿様で女性をトランプカードにして勝負をするおっぱい神経衰弱は衝撃的で忘れられない。自分はキスシーンよりもお色気シーンに関心があるんだなということに幼少のわたしも薄々気づいていた。そして女のはずなのにおっぱいを見て喜んでいるぞ自分は!もしかしたら男なんじゃないか!と心配に思ったことも多々あった。そんな自分にダメダメ!とエッチな感情には極力フタをするようにして必要最低限しかシモの情報を入れないようにきてきた。そのせいか、最近知人との会話の中で汁男優をしているというジョークを理解できず、汁から連想してラーメン屋かなんかだと思ってしまい「熱くて大変ですね」と答えてしまったのであった。その夜、わたしはググってたいそう驚いたのである。そもそも男優という言葉がついているのにどうしてラーメン屋だと思ったのか、と。
このように、おっぱいだなんだと話をしたいのだがいざ話を振られると上手な返しができなかったり、反応に困って急にニヤニヤして会話をしなくなったりと、相手とコミニュケーションが取れなくなってしまう。情けない話だ。
おっぱいだおしりは勿論、性について涼しい顔で表現や主張ができる女性はかっこいい。さらにそこにユーモアがあったら最高である。最近そんなエロとユーモアのある女性の表現を見つける機会が多くなったように思うのだが、ただ単純に少しずつ自分のフタを開けて周りを見出したからかもしれない。わたしもできれば涼しい顔をして軽やかに下ネタコミニュケーションを取れる人間になりたい。もしまた職業は汁男優ですというジョークを言われる機会があったらザーメン屋ですね!!と元気よく答えてみるつもりでいるがそれで大丈夫でしょうか。