あだ名
多くの人が少なくとも1〜2個のあだ名を持っているように思う。わたしもまぁまぁの数のあだ名を持っている。
まずブログやサイトで名乗っている「さとみこんこん」これもあだ名みたいなものである。しかしこの「さとみこんこん」実際に呼ぶ際には、ほとんどの人が呼びにくいと感じる様で「さとみさん」「こんこんさん」など省略して呼ばれることがほとんどで「さとみこんこん」とフルニックネームで呼んでくれるのは私の義理の兄くらいしかいない。
ちなみに1番ベーシックなあだ名はさと、さっと。その他さとちゃん、さとみん、さとちん、さとやんなど「さと」を基準に装飾されて呼ばれることが多いのだが、小学生の頃「さと」と全く関係のないあだ名で呼ばれていたことがある。
「伊達公子」である。これは小6のころのあだ名で、一部の男子がそう呼んでいた。解説するとわたしは伊達公子に似ていない。テニスもしたことがない。テニスも伊達公子も好きだった訳でもない。日焼けしているわけでもない。クルムもパン屋も関係ない。なのに伊達公子なのである。
何故か。
実は小6の時に他にも呼ばれていたあだ名がある。
テニスコート。
わたしは「伊達公子」の前は「テニスコート」と呼ばれていた。先ほども述べた様にテニスをしていたわけではない。テニスコートが家にあったわけでもない。テニスコートが好きだったわけでもない。ないのである。
何故か。
実は「伊達公子」「テニスコート」の前に呼ばれていたあだ名があった。
ペチャパイである。
「伊達公子」「テニスコート」と呼んでいた男子はそもそもわたしのことを「ペチャパイ」と呼んでいた。ひどいもんである。
背はまぁまぁ高いがのんびり発育していた私は確かにブラジャーなんかいらないような胸だった。小学校の時には生理もこなかったし、脇毛なんて20歳まで生えてこなかった。
つまり仰せの通りペチャパイだったのである。「おい!ペチャパイ」と呼ばれても事実であるため反論もできず「ムムム...」と辛抱する毎日であった。
それがある日、ペチャパイから「おい!テニスコート」と呼び名が変わったのだ。話を聞いてみると「胸が平すぎてテニスができそうだから」とのこと。乳首にネットを張るとか訳のわからないことも言っていた。小6の男子はロクなことを考えないねまったく。と思いつつも「テニスコートw」と胸の上でテニスが地味に自分の中でウケて割と気に入っていたあだ名それが「テニスコート」であった。
そんな、なかなか良いあだ名テニスコートもだんだん大衆に飽きられてしまう。そして次についたあだ名が「伊達公子」であった。
テニスと言えば伊達公子っしょ!という小6男子の安直な考えから生まれたあだ名、それが伊達公子であった。つまり伊達公子はペチャパイ→テニスコートの過程を経て伊達公子にたどり着いたわけである。イナダ→ワラサ→ブリ 日吉丸→ 木下藤吉郎→豊臣秀吉 ゼニガメ→カメール→カメックス と同様ペチャパイ→テニスコート→伊達公子も小6男子の経験値や発想の転換から呼び名が変化していったのだ。ペチャパイ女から伊達公子と呼ばれる様になったことは確かにゼニガメからカメックスくらいレベルアップしている。ペチャパイの進化系伊達公子。小6男子なかなかいいセンスじゃないの!
でも一つだけずっと不満に思っていることがある。
小銭を拾ってあげたかった
ある日わたしは勤め先の歯医者で受付をしていた。待合室には70代のご婦人が2名会計待ちをしている。
先に診察が終わった婦人Aの名前を呼び受付にて会計、次回の予約を取っていた。待合室にはソファーが置いてあるのだが、受付からソファーまではだいたい4メートルくらい離れている。その時婦人Bはソファーに腰をかけていたのであった。
するとである。
ガチャーーーン
物音に驚きながら何事かと顔をあげるとソファーに腰をかけていたはずの婦人Bが床を這ってアワアワしていた。
フローリングの床一面に小銭が散らばっていた。
慌てる婦人B。きっと会計の時にスムーズに進むよう段取っていたのだろう。そして段取りに失敗した結果、財布から小銭をぶち撒き床を這う行動に繋がったようだ。
しかも何故か年寄りは小銭を大量に持っている傾向にある。このご婦人も然り。大量の小銭は四方八方に散らばった。
あぁ...ごめんなさい。と申し訳なさそうに小銭を拾う婦人B。
大変だ。すぐにでも小銭を拾ってあげたい。だけどわたしは婦人Aの受付中。
4、5枚の小銭は車輪のようにコロコロと転がり婦人Aの足元あたりで力つきて止まった。
囲いの中にいるわたしは拾ってあげられないけれど、婦人Aが拾ってくれるだろう。そう思っていたが婦人Aは全くもって無視。さっきからずっと無視。ガチャーンと小銭が散らばった時に振り向いたような気もしたが無視。別に耳が不自由なわけでもなし。
なんでこの人小銭を拾ってあげないんだろう。
婦人Bはまだ床を這っている。
婦人A、足元の銭くらい拾ってあげてくれと眼力で訴えた。
全くもって無視を貫く婦人A。
わたしはモヤモヤした。
仕方ない。わたしがさっさと受付を済ませて拾ってあげよう。
アップテンポで次回の予約をとり「お大事に」で締めくくる。
婦人Bは四つん這いからようやく立ち上がり、ソファーに再び腰をかけていたが、まだ婦人Aの足元には婦人Bの小銭が数枚散らばっている。
拾ってあげなきゃ。
受付の囲いから出て待合室へ向かう。
さぁ、小銭を拾ってあげよう!
せっせと駆けつけ待合室の扉を開けた瞬間
「コーーートーーー(怒)」
ドスのきいた声で叫ぶ婦人A。
泣く泣く開けた扉をそのまま締めて婦人Aのお預かりのコートを取りに行く。
そんな元気があるなら小銭拾ってあげてくれよ婦人A。
婦人Aに失礼しましたとコートを返しさっさと帰れと玄関のドアを開けて見送る。
やれやれとドアを閉め、ようやく落ちていた小銭を拾って婦人Bに渡すことができた。
「小銭まだ落ちてましたよ。すぐに駆けつけられなくてすみません。」
「ありがとう。こちらこそごめんなさいね。お恥ずかしい」
これで一件落着である。
落ちてしまった小銭を拾ってあげて渡す。ただそれだけのことを何故婦人Aはしなかったのだろうか。
婦人Aが小銭を拾わなかったことがショックすぎて小銭を拾わなかった婦人Aのことを昼休みの時に先輩に話した。
すると、
「落ちたお金を拾っちゃいけないって思ってる人もいるからね」
「!!?!」
拾うのが当たり前だと思っていた落ちた小銭。拾わない人はそれなりに理由があるということを先輩から学んだ。風水的によくないとかそういうことなんだろうか。その時は「そうなんですか!」と言って終わった。
後日調べてみるとタイでは落ちた小銭は不浄となされ拾わない人が多いとか、ささやかなことで運を使ってしまいもったいないので拾わないとか、そういった仏教の教えがあるらしい。
またインターネットで調べると、Yahoo!知恵袋で人が落とした小銭を拾うかどうか質問していて、盗ると思われるから拾わないというアンサーがあった。拾って貰う人がそんなこと思うかと驚き、拾う側にもよっしゃ小銭ゲットと盗っ人する人がいるのかよと二度驚き、わたしは人生がわからなくなった。
それでもわたしは盗っ人のレッテルを貼られるリスクを背負ってでも小銭が落ちていたら拾ってあげたいし、落とし主がわからない小銭も拾い、1円でも拾っている。なぜならもったいないから。
こうやってささやかな運を使っているせいで、大きな運気がわたしには流れてこないのかもしれない。
しかしそんなある日、わたしは道端で4000円を拾ったのだ。裸でポロっと落ちていた4000円。そのまま貰うのもなんだか気が引けたので交番に届けた。すると財布に入っていないお金というのは持ち主が現れにくく、結局そのお金は数ヶ月後の12月に拾い主のわたしに戻ってきた。わたしはそのお金でクリスマスに食べるチキンとケーキを買おう!とガッツポーズをした。
仏様的には馬鹿者とお叱りになるのかもしれないけど、イエス様はきっと拾ったお金で生誕を祝っても許してくれますよね、アーメン。と、拾った4000円でありがたくチキンとケーキを買ってクリスマスを祝ったのだった。
これからもわたしは自信を持って小銭を拾っていきたいと思います!